「イクノ・アムラク」の版間の差分

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イクノ・アムラクは、その治世の間、アベイ川の南方に勢力を持っていたダモト王国と争い続けていた。イクノ・アムラクに関する記録でより確実なものは、彼の帝国と交流関係のあった他国の記録である。E.A.ウォリス・バッジは、イクノ・アムラクは、[[ビザンツ帝国]]の[[ミカエル8世パレオロゴス|ミカエル8世]]と書簡を交わすだけでなく、贈り物として何頭かの[[キリン]]を贈っているという。
また、イクノ・アムラクは近隣の[[イスラム教|イスラム]]勢力とも友好関係を保っていた。ただし、[[エチオピア正教会]]よりAbuna(主教)の称号を与えられていることから、深くかかわるのは避けている。また前述のようにマムルーク朝のスルタン、バイバルスにも何度か書簡を送っている。バイバルスは当時エチオピア正教会の最終的な権威者である[[アレキサンドリア]]の[[大主教]]に対して宗主権を持っていた。[[1273年]]にバイバルスによって新しい主教が立てられた。しかし、この書簡はイクノ・アムラクの最初の要求ではなかったようで、書簡が届いていない時点で、[[イエメン]]のスルタンによって[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に派遣した使者の旅程が妨げられたことについて抗議しているからである。
タムラトによると、イクノ・アムラクの息子は、シリアの[[司祭]]であったがアレキサンドリアの大主教にかまってもらえなかったという。タムラトは、当時アレキサンドリアと[[アンティオキア|アンテオケ]]の大主教は、[[エルサレム]]の[[司教]]の[[叙任権|叙任]]を巡って争っていたという。もともとエルサレムの司教の叙任は、アンテオケの大主教の特権であった。アンテオケの大主教イグナティウス3世ダヴィドは、エチオピアの巡礼者の主教として扱われ、叙任された。このことが叙任をめぐる議論の発端となった。
巡礼者がエチオピアの主教の地位を得ていたとは思えないが、[[コプト教]]会の司教がイクノ・アムラクに彼の王国へ来ているシリアのコプト教の支持者にたよることを強いるようなことはなかったようである。