「島津久光」の版間の差分

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| 氏名 = 島津久光
| 画像 = Shimazu Hisamitsu 島津久光.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 島津久光像<br>[[原田直次郎]]筆 明治21年([[1888年]]) [[尚古集成館]]蔵
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治時代]]
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| 氏族 = [[島津氏]]→[[種子島氏]]→島津氏(宗家→[[越前家 (島津氏)|重富家]]→宗家→[[玉里島津家|玉里家]])
| 父母 = 父:[[島津斉興]] 母:[[お由羅の方]]<br/>養父:''[[種子島久道]]''、''[[島津忠公]]''
| 兄弟 = [[島津斉彬|斉彬]]、[[池田斉敏]]、'''久光'''、順姫、<br>[[候姫]]
| 妻 = 正室:'''島津千百子'''(島津忠公の娘)<br/>側室:山崎武良子
| 子 = [[島津忠義]]、[[島津久治|久治]]、'''[[島津珍彦|珍彦]]'''、[[島津忠欽|忠欽]]、'''[[島津忠済|忠済]]''' [[#家族|ほか]]
| 特記事項 =
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'''島津 久光'''(しまづ ひさみつ)は、[[江戸時代]]末期から[[明治|明治時代]]初期にかけての[[日本]]の[[政治家]]。[[幕末]]の[[薩摩藩]]における事実上の最高権力者で、[[公武合体]]運動を推進した。[[明治政府]]の[[内閣顧問]]、[[左大臣]]。[[越前家 (島津氏)|重富島津家]]当主、のち[[玉里島津家]]初代当主。
 
[[位階]][[勲等]][[爵位]]は[[従一位]][[菊花章|大勲位]][[公爵]]。[[字]]は君輝、邦行。[[雅号]]は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。
 
[[島津氏|島津家]]27代当主(薩摩藩10代藩主)[[島津斉興]]の五男で庶子。同28代当主(11代藩主)[[島津斉彬]]は異母兄、同29代当主(12代藩主)[[島津忠義]]は長男。次男・[[島津久治|久治]]は[[宮之城島津家|宮之城家]]、四男・[[島津珍彦|珍彦]]は[[越前家 (島津氏)|重富家]]、五男・[[島津忠欽|忠欽]]は[[今和泉島津家|今和泉家]]、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。
 
[[香淳皇后]]の祖父、[[明仁|明仁上皇]]の高祖父にあたる。その為[[徳仁|今上天皇]]の先祖にもあたる。
 
== 生涯 ==
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== 評価 ==
*[[松平春岳|松平春嶽]] 「久光卿はすこぶる因循家にして、古法を膠守することと衆人申したり。幕府の時分より今に至るまでかくの如くいえり。悪口もあれど、中々才智よりも道徳を重せられ、尊王の志は却って斉彬公よりも超過せりと考えられたり。この公は陸軍よりは海軍の方に専ら力を尽したきと申されたり。この公の談話にもすこぶる感佩敬服のこと共多し」<ref>『逸事史補』</ref>
*[[伊藤博文]] 「世間では島津公を頑固の人のように云うて居るが、決してそうでない。公はかつて『己れは攘夷などと云う事はせぬ。それは西郷などが言うことだ』と云われたことがある。しかし西洋流の事物を採ると云うことは、お嫌いのようであった」
 
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</pre>
 
{{明仁の系譜}}
=== 家族 ===
''※主に「御祭祀提要」(『尚古集成館紀要』5号)を参照。''
*正室:島津千百子([[重富家]][[島津忠公]]の娘・久光の従妹、[[文政]]4年([[1821年]])- [[弘化]]4年5月10日([[1847年]][[6月22日]]))
**於儔([[天保]]7年12月8日([[1837年]][[1月14日]]) - 天保8年8月24日([[1837年]][[9月23日]]))
**[[島津忠義]]
**於定([[島津久静]]室、栄松院、天保9年[[1月20日 (旧暦)|正月20日]]([[1838年]][[2月14日]])- [[慶応]]3年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[1867年]][[4月15日]]))<ref group="注釈">なお[[宮尾登美子]]『[[天璋院篤姫 (小説)|天璋院篤姫]]』では於哲の妹とされているが、これは誤伝である。</ref>)
**於哲<ref group="注釈">[[2008年]]に放映された[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]][[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]では、[[吉高由里子]]が演じた。</ref>([[入来院公寛]]室<ref group="注釈">[[徳川家定]]継々室候補の一人となったが、[[島津斉彬]]の選抜によって[[島津忠剛]]の娘・一(かつ、後の[[天璋院]])を擁立することが決まり外れた。</ref>、天保10年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]([[1839年]][[3月24日]]) - [[文久]]2年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]([[1862年]][[7月30日]]))
**[[島津久治]](島津図書)
**包次郎(天保13年7月晦日([[1842年]][[9月4日]])-天保14年4月7日([[1843年]][[5月6日]]))
**於寛(喜入久博室、天保14年[[9月7日 (旧暦)|閏9月7日]]([[1843年]][[10月29日]]) - [[文久]]2年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]([[1862年]][[8月22日]]))