「サイパンの戦い」の版間の差分

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== 主要戦闘経過 ==
=== 前哨戦 ===
 
チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、[[マジュロ環礁]]に集結した。5月30日、[[千早猛彦]]海軍大尉の操縦で[[ナウル]]基地を飛び立った日本海軍の偵察機[[彩雲 (航空機)|彩雲]]が、これを確認した。6月5日、彩雲で再びマジュロ環礁を偵察し、アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。しかし、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強した。これは、直前の5月27日から始まった[[ビアク島の戦い]]が続いていたため、ビアク島から遠いマリアナ諸島最北端のサイパンに上陸する可能性は小さいと思われたからである。第31軍司令官の小畑中将も、5月28日からパラオへ作戦指導のため出張している。6月9日、彩雲による3度目のマジュロ環礁の偵察をしたが、既にアメリカ軍は6日にサイパンに向け出撃しており、その姿はマジュロ環礁から消えていた。
 
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攻撃目標は海岸ではなくオレアイのサイパン無線局とし、戦力は歩兵第306連隊、歩兵第40連隊第三大隊、歩兵第18連隊第1大隊、戦車第9連隊と砲兵隊、海岸で壊滅した部隊の残存兵であった。攻撃開始時刻はアメリカ軍が夜襲対策として防御を固める夜半ではなく、夕方の17時としたが、結局準備に手間取り、攻撃開始は深夜の6月17日2時30分が攻撃開始時間となった<ref>『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』464頁</ref>。
 
戦車第9連隊の30両の戦車はそれぞれ歩兵数名せて突撃すり込んでおり、いわゆる[[タンクデサント]]が行われによる突撃となった。本来であれば戦車部隊は横隊で突撃するのが理想的であるが、地形的に2列縦隊での突撃を余儀なくされ火力が大きく減じら、水平に砲撃すば前の車輌に当たってしまうため、仕方なく空に向かって砲撃せざるを得なかっ<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=63}}</ref>。一方アメリカ軍は[[M4中戦車]]を多数揚陸済みであり、他にも大量の[[M3 37mm砲]]と新兵器[[バズーカ]]と対戦車砲を搭載した[[M3 75mm対戦車自走砲]]も待ち構えていた。アメリカ軍海兵隊にとっては、開戦以来、初めて受ける大規模な敵戦車からの攻撃で大きな混乱がおこってもおかしくなかったが、夜間で日本軍戦車隊の全体像が判らなかったので、かえって視界内の限られた戦車への対策に集中できて、海兵隊兵士に多きな混乱は生じなかった<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。一方で、攻撃側の戦車第9連隊は不慣れな縦隊突撃を行ったので、たちまち指揮系統が混乱してしまい<ref name="sato142"/>、まとまった作戦行動はとれず、4~5輛の戦車が一団としてまとまって突進し、なかには沼地にはまって動けなくなる戦車もあった<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>
 
空には無数の照明弾が打ち上げられ白昼のような明るさの中で、[[97式中戦車]]と[[M4中戦車]]の戦車戦が行われたが、砲撃の練度は日本軍が勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対し、M4中戦車の砲弾は易々と97式中戦車や[[95式軽戦車]]を撃破していった<ref name="sato138"/>。戦車の上に乗っていた歩兵も激しい射撃で死傷者が続出して殆どが振り落された。
それでも、戦車第9連隊の戦車はアメリカ軍が築いていた陣地に突入したが、そこで待ち受けていたのが新兵器のバズーカであった。装甲の薄い日本軍戦車にバズーカが命中すると、ほぼ同時に装甲を貫通して内部で炸裂し擱座する戦車が続出した<ref>{{Harvnb|佐藤和正|2014|p=142}}</ref>。M3 37mm砲も威力を発揮して次々と日本軍戦車は撃破されていった。空には無数の照明弾が打ち上げられ白昼のような明るさの中で、[[M4中戦車]]も戦場に到着して、[[97式中戦車]]との戦車戦が行われたが、砲撃の練度は日本軍が勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対し、M4中戦車の砲弾は易々と97式中戦車や[[95式軽戦車]]を撃破していった<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=64}}</ref>。戦車の上に乗っていた歩兵も激しい射撃で死傷者が続出して殆どが振り落された。あらゆる火器を浴びせられる中で日本軍戦車は絶望的な戦いを続けており、[[下田四郎]]が搭乗していた95式軽戦車は、第3中隊長の西館法夫中尉が搭乗する97式中戦車改と併走していたが、中隊長車にはバズーカが命中し爆発炎上した。中隊長車からは西館以下誰も脱出できず、全員が戦死したものと思われたが、脇目もふらずにさらに突進したところ、[[キャタピラ]]にバズーカが命中し、走行不能となってしまった。戦車長の中尾曹長の指示で3名の戦車兵は戦車から脱出、車載機銃を取り外して近くの窪地に潜むこととした。目の前では激しい戦闘が続いており、数十m先ではバズ-カが命中して撃破された97式中戦車の中から一人の戦車兵が飛び出すと、軍刀を振りかざしながら敵陣に突撃していった。そのような光景を見ていたたまれなくなった下田は、自分も機銃を抱いて突撃しようと身構えたが、戦車長の中尾が「死に急ぐな、戦闘はこれからだぞ。この場は俺にまかせろ」といって強く制止した<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=65}}</ref>。
戦車戦で撃破されなかった日本軍戦車もバズーカや対戦車砲で撃破され、2時間で戦車第9連隊は壊滅し連隊長の五島正大佐も戦死した<ref>『サイパン戦車戦』下田四郎(著)光人社NF文庫 66頁</ref>。
 
なおも突進し、あと一歩でアメリカ軍に砲兵陣地まで達するところまで達した日本軍戦車を足止めしたのは、[[M101 105mm榴弾砲]]の砲撃と艦砲射撃であった。最後の日本軍戦車は朝7:00に海岸近くまで達して、海上の海軍艦艇から目視することができたので、20発の艦砲射撃が浴びせられた<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。榴弾砲や[[M1897 75mm野砲|75mm対戦車砲]]が、日本軍戦車撃破にあまり活躍できなかったのは、総攻撃に伴って行われた日本軍の支援砲撃が非常に効果的であったためで、日本軍の観測兵はアメリカ軍の砲兵陣地を24時間に渡って詳細に観察し、その位置関係を図面にしていたので、極めて正確な砲撃ができた。日本軍の砲撃によりM101 105mm榴弾砲5門と75mm対戦車砲3門が撃破されて、海兵隊の砲兵に多数の死傷者が生じて砲撃能力が低下していた<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。夜が明けて戦場でくすぶる日本軍戦車の中には、まだ戦車兵が生存しているのか砲塔を回転させている戦車もあったが、M3 75mm対戦車自走砲の砲撃によりトドメが刺された。この戦車第9連隊の突撃でアメリカ軍は97名の海兵隊員が死傷した<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。
 
戦闘が開始されて2時間経過した朝7:00には、連隊長車で砲塔に白い点線で鉢巻きの塗装がしてある97式中戦車改「あそ号」も撃破され、29輛の戦車第9連隊の戦車が戦場の至る所で燻っており、唯一、仁科信綱軍曹が車長の1輛のみが生還した<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=66}}</ref>。戦場をあとにし、中隊本部に後退する下田らは仁科の戦車と合流したが、その際に仁科より「友軍は全滅したぞ、連隊長殿の戦車も擱座した。おそらく戦死されただろう」と連隊長の五島の戦死を聞かされている<ref>{{Harvnb|佐藤和正|2014|p=146}}</ref>。撃破された戦車からからくも脱出した下田ら戦車兵は、どうにか2日かけてタポーチョ山東側の連隊本部にたどり着いたが、撃破された29輛の110名の戦車兵のうち、生還できたのはわずか30名ほどで、連隊長以下3/4が戦死していた<ref>{{Harvnb|佐藤和正|2014|p=147}}</ref>。一方で、日本軍最大の戦車攻撃を撃退したアメリカ軍海兵隊の兵士らは、明るくなって戦場に多数残されていた日本軍戦車の残骸を見て非常に志気が高まり、戦車の近くにいた日本兵の負傷者を殺害して回っている<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。
 
戦車第9連隊に呼応して夜襲をかけた歩兵も、昨日より格段に強化されたアメリカ軍陣地の前に死傷者続出で第36連隊は一個大隊程度の兵力にまで落ち込んで退却、歩兵第18連連隊第一大隊は久保大隊長以下殆どが戦死した<ref>『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』465頁</ref>。
 
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* デニス・ウォーナー『ドキュメント神風上巻』時事通信社 1982 ASIN: B000J7NKMO
* {{Cite book|和書|author=トーマス・B・ブュエル|others=小城正(訳)|title=提督スプルーアンス|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|date=2000|ISBN=4-05-401144-6|ref=ブュエル}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤和正|title=玉砕の島|publisher=光人社|date=2004|ref={{SfnRef|佐藤和正|2014}}}}
* {{Cite book |和書 |author=下田四郎 |year=2014 |title=サイパン戦車戦 |publisher=光人社 |dateseries=2014光人社NF文庫 |isbn=4769821050 |ref={{SfnRef|下田四郎|2014}}}}
* {{Cite book|和書|author=チェスター・マーシャル|title=B-29日本爆撃30回の実録|publisher=ネコパブリッシング|date=2001|ref=マーシャル}}
* {{Cite book|和書|author=米戦略爆撃調査団|title=ジャパニーズ・エア・パワー 米国戦略爆撃調査団報告書 日本空軍の興亡|publisher=光人社|date=1996|ref=米戦略爆撃調査団}}