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1915年9月に[[中尉]]に昇進するとともに、新たに編成される「[[ヴュルテンベルク山岳兵大隊]]」({{lang|de|Württembergischen Gebirgsbataillon}})への転属を命じられた<ref name="Dagger"/><ref name="アーヴィング(1984)上43"/><ref name="ヤング(1969)43"/><ref name="山崎(2009)65">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.65]]</ref>。10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属<ref name="山崎(2009)67">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.67]]</ref>。同大隊の中隊長となった<ref name="クノップ(2002)25"/><ref name="アーヴィング(1984)上43"/>。これまでドイツ帝国のいずれの[[領邦]]も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置する[[バイエルン王国]]と[[ヴュルテンベルク王国]]が山岳兵部隊を編成することになったのであった<ref name="山崎(2009)66">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.66]]</ref>。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は、同盟国の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[アルプス山脈]]で[[スキー]]訓練など受けた後、1915年12月31日に[[ヴォージュ山脈]][[ヒルツェン丘陵]]でフランス軍と戦ったが、ここでの戦闘は緩やかで、比較的のんびりと1年ほど戦った<ref name="山崎(2009)70">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.70]]</ref><ref name="ヤング(1969)44">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.44]]</ref>。
 
===== ルーマニア戦線 =====
1916年10月末、山岳兵大隊は[[ルーマニア戦線]]に転戦した<ref name="アーヴィング(1984)上43"/><ref name="ヤング(1969)44"/>。同大隊は11月11日に[[レスルイ山]]の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した<ref name="山崎(2009)73">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.73]]</ref>。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日に[[自由都市ダンツィヒ|ダンツィヒ]]においてルーツィエと簡易な結婚式をあげた<ref name="ヤング(1969)44"/><ref name="山崎(2009)73"/>。[[ハネムーン]]などはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した<ref name="山崎(2009)73"/>。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊は[[ガジェシュチ]]村({{lang|ro|[[:ro:Găgești, Vaslui|ro]]}})で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした<ref>[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.73-74]]</ref>。
 
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負傷した腕の治療のため一月ほど休養に入り、その間は妻ルーツィエと一緒に過ごした<ref name="山崎(2009)80">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.80]]</ref>。
 
===== イタリア戦線 =====
[[File:Erwin Rommel.jpg|150px|thumb|right|1917年、イタリア戦線でのロンメル]]
[[ファイル:Pour le mérite Neilebock.jpg|thumb|120px|プール・ル・メリット勲章]]
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しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、[[ロンガローネ]]のイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした<ref name="アーヴィング(1984)上50">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.50]]</ref>。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいして[[プール・ル・メリット勲章]]の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた<ref name="アーヴィング(1984)上50">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.50]]</ref>。
 
==== 一次大戦末期 ====
その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった<ref name="クノップ(2002)27">[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.27]]</ref><ref name="山崎(2009)90">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.90]]</ref>。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に[[大尉]]に昇進した<ref name="クノップ(2002)27"/><ref name="山崎(2009)90"/>。
 
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第7装甲師団は、この戦争において主要な役割を割り当てられていたわけではない<ref name="西方(1997)160"/>。しかしその進軍スピードの速さから連合国は「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「'''幽霊師団'''([[英語|英]]:Ghost Division、[[フランス語|仏]]:Division Fantôme、[[ドイツ語|独]]:Gespensterdivision)」と呼んで恐れた<ref name="山崎(2009)163">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.163]]</ref><ref name="全史2(2000)48"/>。
 
===== アルデンヌの森通過 =====
1940年[[5月10日]]午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した<ref name="山崎(2009)144">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.144]]</ref>。
 
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ドイツ軍第7装甲師団がアルデンヌの森を通過しようとしていることを察知したフランス軍は第1・第4軽騎兵師団を差し向けたが(この両軽騎兵師団は騎兵旅団と機甲旅団で編成されていた)、第7装甲師団の奇襲を受けるとすぐに西に撤収していった<ref name="山崎(2009)146">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.146]]</ref>。
 
===== ムーズ川渡河 =====
[[File:Dinant-2004.jpg|thumb|220px|2004年の[[ディナン (ベルギー)|ディナン]]。]]
5月10日から5月12日の3日間で第7装甲師団はアルデンヌの森を横断し、5月12日の夜遅くに一次大戦の頃にも悩まされた天然の要塞[[ムーズ川]]に面した町[[ディナン (ベルギー)|ディナン]]に到達した<ref name="アーヴィング(1984)上83"/>。ロンメルはできれば撤退するフランス軍第1・第4軽騎兵師団の後に続いて一気に橋を渡りたかったが、ちょうど第7装甲師団が川に到着した頃にディナンにかかっていた橋が爆破されたため、[[ゴムボート]]と[[舟橋]]を使っての渡河作戦を実施せざるを得なくなった<ref name="ハート(1971)33">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.33]]</ref>。
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第7装甲師団は多くの死傷者を出しながらも5月13日中にはレフェに架橋することに成功し、戦車のムーズ川渡河を成功させた<ref name="ヤング(1969)93">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.93]]</ref><ref name="山崎(2009)149">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.149]]</ref>。
 
===== オナイユで負傷 =====
5月14日早朝、すでに渡河していた30両の戦車だけでディナンの西約5キロの[[オナイユ]]([[:fr:Onhaye|fr]])へ進撃を開始した<ref name="ハート(1971)37">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.37]]</ref>。これによりフランス軍が対応を決定するより早く部隊を浸透させることに成功した<ref name="西方(1997)160"/>。
 
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[[フランス軍第9軍]]([[:fr:IXe armée française|fr]])司令官[[アンドレ・ジョルジュ・コラップ]]中将([[:fr:André Georges Corap|fr]])はロンメルの第7装甲師団のこのオナイユへの進軍と[[ハインツ・グデーリアン]]の装甲軍団の[[スダン]]での渡河成功を恐れ、ムーズ川の防衛線を放棄してさらに西へ退却する事を命じた<ref name="ハート(1971)39">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.39]]</ref>。
 
===== 停止命令を無視して進軍 =====
ロンメルの師団は[[フラヴィオン]]([[:fr:Flavion|fr]])で[[重戦車]][[ルノーB1]]の燃料切れで停止していたフランス軍第1機甲師団と戦闘した後、ここを後続の第5装甲師団に任せて、[[フィリップヴィル]]([[:fr:Philippeville|fr]])へ進撃した<ref name="アーヴィング(1984)上83"/><ref>[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.154-155]]</ref>。
 
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ロンメルは[[クルト・ヘッセ]]大佐に「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今は[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ|ザイトリッツ]]や[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン|ツィーテン]]の時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている<ref name="アーヴィング(1984)上89">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.89]]</ref>。
 
===== マジノ線延長部分突破 =====
[[File:Maginot Line ln-en.jpg|thumb|220px|点線の部分がマジノ線延長部分]]
ロンメルの師団は5月16日午後6時頃にベルギーとフランスの国境を超えて、フランス領へ突入した<ref name="山崎(2009)157">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.157]]</ref>。
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マジノ線延長部分がロンメルの師団の攻撃で受けた損害は微々たるものだったが、凄まじい勢いで進軍するロンメルの師団にフランス軍はパニックを起こして、戦わずして次々と投降した<ref name="山崎(2009)159">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.159]]</ref>。マジノ線延長部分の突破で第7装甲師団が被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。戦果はフランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲であった<ref name="ハート(1971)53">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.53]]</ref>。
 
===== 進軍の一時停止 =====
ロンメルの師団は5月17日午前0時に[[アヴェーヌ]]([[:fr:Avesnes-sur-Helpe|fr]])に到着、ついで午前6時には[[サンブル川]]沿いの[[ランドルシー]]([[:fr:landrecies|fr]])に到着、さらに午前6時30分には[[ル・カトー]]([[:fr:Le Cateau-Cambrésis|fr]])東部の高地へ進軍した<ref name="山崎(2009)158">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.158]]</ref>。途中避難民と西へ撤退するフランス兵で道が大混雑していた<ref name="ハート(1971)49">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.49]]</ref>。フランス兵の大半はロンメルの師団が横を通過しても抵抗することはなく、おとなしく捕虜となった<ref name="アーヴィング(1984)上86">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.86]]</ref>。ロンメルは捕虜にしたフランス兵に対しては武装解除だけして自分で東の捕虜収容所に向かうよう指示した<ref name="アーヴィング(1984)上86"/>。
 
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翌5月18日昼に前線のローテンブルク大佐たちと合流した<ref name="ハート(1971)54">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.54]]</ref>。補給と修理を済ませて午後3時に進軍が再開された<ref name="ハート(1971)54"/><ref name="ピムロット(2000)83">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.83]]</ref><ref name="山崎(2009)163">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.163]]</ref>。抵抗を受けることなく[[カンブレー]]を占領したが、ここで再び進軍停止を命じられた。西方へ向けて進撃する[[ハインツ・グデーリアン]]と[[ゲオルク=ハンス・ラインハルト]]の装甲軍団の側面を歩兵部隊の到着まで右翼のホト第15装甲軍団(ロンメルの師団はこの隷下)がベルギー・北フランスの連合国主力の攻撃から守ることになったのである<ref name="ハート(1971)56">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.56]]</ref>。ロンメルの師団はこの時間を補給と兵の休息に利用した<ref name="ハート(1971)56"/>。
 
===== アラスの戦い =====
{{main|アラスの戦い (1940年)}}
ヒトラーは5月19日に進軍停止命令を解除し、グデーリアンとラインハルトの装甲軍団以外の装甲部隊も西方進撃を再開することになった<ref name="山崎(2009)163"/>。
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しかしこの戦いで師団はかなりの損害を受けた。戦死と捕虜で250名を失い<ref name="ヤング(1969)98">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.98]]</ref>、ロンメルの副官モスト中尉もこの戦いで戦死した<ref name="アーヴィング(1984)上91"/><ref name="ハート(1971)60">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.60]]</ref>。IV号戦車3両、38(t)戦車6両{{#tag:ref|ロンメルはアラスの戦いで「III号戦車6両」を失ったと書いているが、恐らく38(t)戦車の間違いである<ref name="ピムロット(2000)85">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.85]]</ref>。|group=#}}、軽戦車多数を失った<ref name="ヤング(1969)97"/><ref name="ピムロット(2000)85"/>。
 
===== ダンケルク包囲 =====
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-045-02, Frankreich, Erwin Rommel und Offiziere mit Karten.jpg|thumb|190px|1940年5月。部下たちと共に地図を見る第7装甲師団長ロンメル少将。]]
5月22日と5月23日にアラス西郊を迂回して[[ベテューヌ]]まで前進し、同地のイギリス軍をその先にある運河線の向こうまで後退させた<ref name="ハート(1971)63">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.63]]</ref>。
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また同日ヒトラーが進軍停止命令を解除した<ref name="ピムロット(2000)85"/><ref name="アーヴィング(1984)上92">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.92]]</ref>。連合国主力の包囲の一翼を担うため第7装甲師団は[[リール (フランス)|リール]]へ向けて北進するよう命じられた<ref name="ピムロット(2000)86">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.86]]</ref>。進軍停止命令が解除されると第7装甲師団は[[キャンシー]]([[:fr:Cuinchy|fr]])から運河を渡河し、激しい抵抗を退けながらリールとその西方[[エンヌティエール]]([[:fr:Ennetières-en-Weppes|fr]])間の道路を抑えることに成功した<ref name="ハート(1971)70">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.70]]</ref>。これにより海の方へ向かう退路を断ち、フランス第一軍の半分近くの将兵を補足することに寄与した<ref name="アーヴィング(1984)上93">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.93]]</ref><ref name="ハート(1971)71">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.71]]</ref><ref name="ピムロット(2000)88">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.88]]</ref>。その後歩兵師団が到着し、リールを占領した<ref name="アーヴィング(1984)上93"/>。
 
===== ヒトラーと対面 =====
[[5月29日]]にロンメルの師団はアラス西方に戻って休息に入るよう命じられた<ref name="ヤング(1969)98">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.98]]</ref>。
 
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6月4日にダンケルクの撤退が完了し、ベルギー・北フランスの英仏軍は消えたのでドイツ軍にとって後は南へ向けて進軍するのみとなった<ref name="ピムロット(2000)88">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.88]]</ref>。なお[[ベルギー軍]]は[[ベルギー国王|国王]][[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]の決定により5月28日に降伏して武装解除を受けていた(ただベルギー政府は降伏を拒否し、国王大権剥奪決議を行っている)<ref name="阿部(2001)460">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.460]]</ref>。
 
===== セーヌ川まで南進 =====
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-045-08, Westfeldzug, Rommel bei Besprechung mit Offizieren.jpg|thumb|220px|草原に座り込んで即席の会議を行う第7装甲師団長ロンメル少将。左から二人目が第7装甲師団の主力である第25装甲連隊の隊長カール・ローテンブルク大佐。]]
6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡って[[ソンム川]]を渡河した<ref name="アーヴィング(1984)上94"/><ref name="ハート(1971)75">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.75]]</ref>。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした<ref name="アーヴィング(1984)上94"/>。
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[[6月8日]]真夜中にルーアン南方の[[セーヌ川]]に到達した<ref name="アーヴィング(1984)上95"/><ref name="ハート(1971)74">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.74]]</ref>。セーヌ川への到達は全ドイツ軍でロンメルの師団が一番乗りだった<ref name="アーヴィング(1984)上95"/>。[[エルブフ]]([[:fr:Elbeuf|fr]])の橋から一気にセーヌ川を渡河しようとしたが、フランス軍がひと足早くセーヌ川にかかる全ての橋を爆破したために失敗した。ロンメルの師団は突出しすぎており、背後にはまだ敵が残っている都市がたくさんあった。また[[ルーアン]]上空に観測用気球があげられたため、ロンメルの師団はエルブフ付近の川がくねって半島のようになっている地域から一時撤退することにした<ref name="アーヴィング(1984)上95"/><ref name="ピムロット(2000)93">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.93]]</ref>。
 
===== 英仏海峡沿岸での戦い =====
セーヌ川渡河に失敗した直後、ロンメルの師団は[[国防軍最高司令部]]より英仏海峡に面する港町[[サン・バレリー]]([[:fr:Saint-Valery-en-Caux|fr]])を占領してイギリス軍[[第51歩兵師団 (イギリス)|第51歩兵師団「ハイランド」]]([[:en:51st (Highland) Infantry Division|en]])が大ブリテン島に撤収するのを阻止する任務を与えられた<ref name="ヤング(1969)99"/>。
 
290行目:
ロンメルの師団は英仏海峡沿いにさらに西進して[[6月14日]]には[[ル・アーブル]]を占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している<ref name="山崎(2009)173">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.173]]</ref>。ちなみに同日には「[[無防備都市宣言]]」をしていた[[パリ]]がドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている<ref name="山崎(2009)173"/><ref name="阿部(2001)462">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.462]]</ref>。
 
===== シェルブールへ進撃 =====
ヒトラーから[[シェルブール]]占領の命令を受けたロンメルの師団は[[6月16日]]に[[ルーアン]]にドイツ軍が架橋した橋を通過してセーヌ川を超えて進軍を開始した<ref name="アーヴィング(1984)上97"/>。一方同日にフランス大統領[[アルベール・ルブラン]]は[[フィリップ・ペタン]]元帥をフランス首相に任命し、ペタンは中立国[[スペイン]]を通じてヒトラーに休戦要請を行っている<ref name="阿部(2001)463">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.463]]</ref><ref name="山崎(2009)175">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.175]]</ref>。
 
301行目:
激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した<ref name="ハート(1971)112">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.112]]</ref><ref name="山崎(2009)176">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.176]]</ref><ref name="ヤング(1969)105">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.105]]</ref>。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした<ref name="ヤング(1969)105"/><ref name="山崎(2009)176"/>。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。
 
===== フランス降伏 =====
ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を果たすため、独仏の休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]に調印させられた場所である[[コンピエーニュの森]]の[[休戦の客車|列車]](この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された)の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して[[独仏休戦協定]]を締結した<ref name="阿部(2001)464">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.464]]</ref>。
 
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しかし北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「[[騎士道]]の残った戦場」として記憶している者が多い<ref name="ヤング(1969)208">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.208]]</ref>。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかった<ref name="ピムロット(2000)210">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.210]]</ref>。アフリカには[[親衛隊 (ナチス)|SS]]が来なかったので、[[アインザッツグルッペン]]が付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる人物だったことが大きかった<ref name="ピムロット(2000)210">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.210]]</ref>。ロンメルの指揮の下、この戦域のドイツ軍は騎士道精神を貫いて誇り高く戦った<ref name="北アフリカ(1998)132">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.132]]</ref><ref name="ヤング(1969)208">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.208]]</ref>。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである<ref name="北アフリカ(1998)132"/><ref name="ヤング(1969)209">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.209]]</ref>。ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。[[ガザラの戦い]]の際に英軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対する英軍の非人道的取り扱いに激怒している<ref name="ピムロット(2000)210"/>。
 
===== イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗 =====
[[イタリア]]は[[19世紀]]末から[[地中海]]の覇者を目指していたが、その要所となる島や町、アフリカの領土などはすべて英仏に奪われた過去があった<ref name="北アフリカ(1998)40">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.40]]</ref>。イタリア統領[[ベニート・ムッソリーニ]]はイギリスが本土防衛で手いっぱいな今こそ、[[エジプト王国]](名目上独立国だったが、事実上イギリスの軍事支配下にあった)をイギリスから奪うチャンスと見た<ref name="北アフリカ(1998)40"/>。
 
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エジプトの英軍は、イタリアのギリシャ侵攻までは守勢に立っていたが<ref name="ムーアヘッド(1968)32">[[#ムーアヘッド(1968)|ムーアヘッド(1968)、p.32]]</ref>、ギリシャに増援を送ってイタリア軍をギリシャ戦に釘付けにするとともに、12月9日には「[[コンパス作戦]]」を発動し、[[大英帝国]]植民地から集めた部隊を含む3個師団(9万人)でもってイタリア軍3個軍団(25万人)を壊滅に近い状態に追いやった。この結果、イタリア領であったリビアにまで英軍の侵攻を許すことになり、ついにはキレナイカ地方全域が英軍に占領されてしまった<ref name="北アフリカ(1998)42">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.42]]</ref>。こうしてムッソリーニは、同盟国ドイツに対して北アフリカおよびギリシャにおける支援を要請することとなる<ref name="クノップ(2002)38"/><ref name="山崎(2009)188">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.188]]</ref>。
 
===== ドイツ・アフリカ軍団長に就任 =====
ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。ヒトラーは「北アフリカの喪失は軍事的には耐えられるが、イタリアに強い精神的影響を及ぼす。イギリスはイタリアに拳銃を突きつけて講和を結ばせることも、単に空爆することも可能となる。我々に不利なのはこの点である」と述べている<ref name="北アフリカ(1998)42"/><ref name="ヤング(1969)113">[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.113]]</ref>。1940年12月13日にヒトラーはギリシャのイタリア軍を救出するための「マリータ作戦」を発令し<ref name="阿部(2001)480">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.480]]</ref>、ついで1941年1月11日には地中海のイタリア軍支援のための「[[ゾネンブルーメ作戦]](ひまわり作戦)」を発動した<ref name="阿部(2001)486">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.486]]</ref>。
 
358行目:
なおアフリカ軍団は名目上イタリア軍北アフリカ派遣軍の指揮下に入ることとなっていたが、ロンメルは[[国防軍最高司令部]](OKW)総長[[ヴィルヘルム・カイテル]]元帥から「ドイツ軍は(ドイツにとって)無意味な戦闘には投入されないものとする」との命令書を受けていたので自分に一定の裁量権があるものと理解していた<ref name="アーヴィング(1984)上108"/><ref name="山崎(2009)199">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.199]]</ref>。
 
===== 北アフリカ到着 =====
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-424-0258-32, Tripolis, Ankunft DAK, Rommel.jpg|220px|thumb|1941年2月、イタリア植民地[[リビア]]・[[トリポリ]]。イタリア軍将校に挨拶するドイツアフリカ軍団長ロンメル中将。ロンメルの左にいる同伴者はイタリア北アフリカ派遣軍司令官[[イータロ・ガリボルディ]]大将。]]
1941年2月12日昼にロンメルは北アフリカ・リビアの[[トリポリ]]空港に降り立った<ref name="アーヴィング(1984)上109">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.109]]</ref><ref name="ピムロット(2000)106">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.106]]</ref><ref name="北アフリカ(1998)61"/>。しかし戦車の輸送は困難であり、アフリカ軍団の戦車部隊が最初に到着したのは3月11日、第15装甲師団は5月にならねば到着しなかった<ref name="北アフリカ(1998)61"/>。
366行目:
2月17日には英軍の動きが活発になり、エル・アゲイラから若干の西進を開始した。独伊軍も活発になったと見せかけるため、ロンメルはシルテの独伊軍に若干の東進を命じた。2月24日になって初めて英独で小規模な小競り合いが発生したが英軍はすぐに撤退した<ref name="山崎(2009)206">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.206]]</ref>。ロンメルが感じたのは英軍は予想より脆弱で前進の意思がないということだった<ref name="北アフリカ(1998)61"/><ref name="ピムロット(2000)113">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.113]]</ref>。実はエル・アゲイラの英軍は[[ウィンストン・チャーチル]]の要望でギリシャに兵力を割かれていたため、弱体化していた<ref name="カレル(1998)19">[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.19]]</ref><ref name="山崎(2009)204">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.204]]</ref>。加えて[[リチャード・オコーナー]]中将がエジプト司令官に栄転し、砂漠戦に不慣れな[[フィリップ・ニーム]]中将([[:en:Philip Neame|en]])がキレナイカ駐留英軍の司令官に就任していた<ref name="北アフリカ(1998)61"/>。また英軍側の北アフリカ戦線責任者である英軍中東軍司令官[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]大将はドイツ軍の集中状況から見て5月以前にドイツ軍が攻勢に出てくることはなかろうと判断していた<ref name="北アフリカ(1998)61"/>。
 
===== 進軍を禁じられる =====
1941年3月11日から第5装甲連隊(第5軽師団隷下の唯一の機甲連隊)の戦車が徐々にトリポリに揚陸され始めた<ref name="山崎(2009)207">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.207]]</ref>。ロンメルはエル・アゲイラを攻撃する準備を命じてから3月19日に[[ベルリン]]へ飛び、翌20日にヒトラーに報告を行った。ヒトラーはまずロンメルがかねてから欲しがっていた[[騎士鉄十字章#柏葉付騎士鉄十字章|騎士鉄十字章の柏葉章]]を授与した<ref name="アーヴィング(1984)上115">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.115]]</ref>。この柏葉章を授与されるのはロンメルで10人目だった<ref name="山崎(2009)211">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.211]]</ref>。
 
しかしロンメルが求めたエル・アゲイラ攻略やアフリカ軍団増強は認められなかった。参謀総長[[フランツ・ハルダー]]上級大将はロンメルを嫌っていたのでロンメルの甘言に乗らぬようヒトラーに強く進言していた。またそもそも[[独ソ戦]]の準備を進めていたヒトラーや軍部にアフリカに余分な戦力を裂く余裕はなかった<ref>[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.115-116]]</ref>。ヒトラーや軍部にとって北アフリカ戦線は主戦場ではなく、イタリア軍を元気づけて英軍を「軽くいなしておく」だけの場所だった<ref name="山崎(2009)211">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.211]]</ref>。結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた<ref name="北アフリカ(1998)61"/>。
 
===== 命令無視の進軍でキレナイカ地方奪還 =====
[[File:WesternDesertBattle Area1941 en.svg|220px|thumb|1941年の北アフリカ戦線の地図。]]
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-783-0150-28, Nordafrika, Panzer III.jpg|220px|thumb|1941年4月、砂漠を前進するロンメル軍団の[[III号戦車]]。]]
386行目:
メキリを失った英軍は総崩れになり、[[トブルク]]を除くキレナイカ地方からの撤退を余儀なくされた<ref name="ピムロット(2000)123">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.123]]</ref>。英軍中東軍司令官ウェーヴェルが二カ月かかって占領したキレナイカをロンメルは10日間で奪い返した。英軍が進軍ルートに立てていた「ウェーヴェルの道(ウェーヴェルズ・ウェイ)」の看板はドイツ兵によって「ロンメルの道(ロンメルス・ヴェーク)」と書き替えられた<ref name="クノップ(2002)41">[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.41]]</ref>。
 
===== トブルク包囲戦 =====
{{main|トブルク包囲戦}}
[[File:AustraliansAtTobruk.jpg|200px|thumb|トブルク防衛にあたるイギリス軍[[オーストラリア]]兵たち。]]
397行目:
ロンメルは険悪な関係になっていた第5軽師団師団長[[ヨハネス・シュトライヒ]]少将([[:en:Johannes Streich|en]])を更迭し、代わりに5月20日より[[ヨハン・フォン・ラーフェンシュタイン]]少将([[:de:Johann von Ravenstein|de]])が師団長に着任した<ref>[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.158-159]]</ref>。
 
===== エジプトのハルファヤ峠占領と防衛 =====
トブルク陥落は困難と判断したロンメルはトブルクを包囲させたまま、[[マクシミリアン・フォン・ヘルフ]]大佐を指揮官とするドイツ軍第5軽師団の先遣部隊「ヘルフ戦闘団」を東進させた。1941年4月末にヘルフ戦闘団はエジプト国境の戦略的要衝(戦車が通過できる場所だった)である[[ハルファヤ峠]]([[:en:Halfaya Pass|en]])と[[サルーム (エジプト)|サルーム]]([[:en:Sallum|en]])の英軍を撃退して占領し<ref name="アーヴィング(1984)上151">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.151]]</ref>、英軍の防衛ラインを[[ブク=ブク]]と[[ソファフィ]]([[:pl:Sofafi|pl]])の線まで後退させた<ref name="北アフリカ(1998)62"/>。これにより英軍がトブルク救援に向かおうと思えばまずハルファヤ峠とサルームを攻略せねばならなくなった<ref name="カレル(1998)41">[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.41]]</ref>。
 
この後ヘルフ戦闘団は英軍からハルファヤ峠を防衛するのに活躍した。5月15日に英軍中東軍司令官ウェーヴェルは「[[ブレヴィティ作戦]](簡潔作戦)」を発動して攻勢をかけ、ハルファヤ峠を取り戻したが、ヘルフ戦闘団は英軍のそれ以上の進撃は阻止した。そして5月27日にヘルフ戦闘団が反撃に転じ、ハルファヤ峠の英軍を掃討して再占領している<ref name="アーヴィング(1984)上154">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.154]]</ref><ref>[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.41-44]]</ref><ref>[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.235-236]]</ref>。
 
===== 「バトルアクス作戦」を撃退 =====
[[File:BattleaxeContestedArea.JPG|200px|thumb|リビア・エジプト国境付近の地図]]
{{main|バトルアクス作戦}}
415行目:
物量的には英軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域は英空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にも関わらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった<ref name="ピムロット(2000)133"/><ref name="クノップ(2002)45">[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.45]]</ref><ref name="山崎(2009)243">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.243]]</ref>。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった<ref name="カレル(1998)65">[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.65]]</ref>。
 
===== ロンメルの評価高まる =====
ベルリンのヒトラーはロンメルの活躍を高く評価した。ヒトラーは1941年7月1日付けでロンメルを装甲大将に昇進させた<ref name="Dagger"/><ref name="クノップ(2002)45"/><ref name="山崎(2009)247">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.247]]</ref>。一方ロンドンのチャーチルはウェーヴェルの無能を呪った。チャーチルは6月21日付けでウェーヴェルを中東方面軍司令官から解任し、代わって7月5日付けで[[クロード・オーキンレック]]大将を就任させた<ref name="ピムロット(2000)143">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.143]]</ref><ref>[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.67-68]]</ref>。
 
422行目:
この頃になるとイタリア軍の間でもロンメル人気が高まっていた。グラツィアーニやガリボルディなど自国の無能な将軍の指揮の下で戦うより、有能な外国人将軍ロンメルの指揮の下で戦いたがった。ガリボルディもロンメルの要求を色々認めるようになり、イタリア軍兵士の訓練をドイツ軍将校が行う事も許可された。ドイツ軍将校の指導の下、半年もしないうちに異常に低かったイタリア兵の練度が一気に向上して、イタリア兵たちの間に自分たちも北アフリカ戦の勝利に貢献できるという自信が付き始めた<ref name="山崎(2009)248">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.248]]</ref>。
 
===== 「クルセーダー作戦」で追い込まれる =====
{{main|クルセーダー作戦}}
[[File:AfricaMap3.jpg|220px|thumb|「クルセーダー作戦」の両軍の部隊配置と進軍ルート]]
442行目:
だが独伊軍に以前ほどの悲壮感はなかった。英軍は何の戦略もなく単に物量差で強引に押しただけであり、しかも受けた損害は両軍痛み分けという感じだった。独伊軍は戦車300両を失ったが、英軍も270両以上失っていた<ref name="北アフリカ(1998)65"/>。また独伊軍は3万8000人の将兵を失っているが、その大部分はイタリア兵であり行方不明者だった(イタリア逃亡兵が多いと思われる)。一方英軍は1万8000人の将兵を失っているが、その大部分は戦死だった<ref name="ピムロット(2000)156">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.156]]</ref>。そのため独伊軍の将兵は戦略次第で巻き返しは十分可能と考えていた<ref name="山崎(2009)269"/>。そして実際に独伊軍は今一度キレナイカ地方を奪還してエジプト領に攻め込むことになる。
 
===== キレナイカ地方東部を再奪還 =====
ロンメルは将兵たちを激励して回り士気を高めつつ、部隊の再編成を進めた。1942年1月5日にはヒトラーから新年の贈り物として戦車55両と装甲車20両の増援を受けた<ref name="アーヴィング(1984)上222">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.222]]</ref><ref name="ハート(1971)209">[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.209]]</ref><ref name="山崎(2009)271">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.271]]</ref>。またロンメルのアフリカ装甲集団は南方戦域総司令官[[アルベルト・ケッセルリンク]]空軍元帥の指揮下に入ることとなった<ref name="北アフリカ(1998)66">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.66]]</ref>。
 
449行目:
ヒトラーはロンメルの功績に報い、1月20日付けでロンメルに[[騎士鉄十字章#柏葉・剣付騎士鉄十字章|騎士鉄十字章の柏葉・剣章]]を授与し(全軍で6番目)、ついで1月30日付けで[[上級大将]]に昇進させた<ref name="Dagger"/><ref name="山崎(2009)274">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.274]]</ref>。また2月21日付けでロンメルのアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍( Panzerarmee "Afrika")に昇格した<ref name="Dagger"/><ref name="ピムロット(2000)166"/>。
 
===== ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還 =====
{{main|ガザラの戦い}}
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1977-018-11A, Nordafrika, Generalfeldmarschall Erwin Rommel.jpg|150px|thumb|1942年6月のアフリカ装甲軍司令官ロンメル上級大将。]]
478行目:
ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗のシンボル」だったトブルクが陥落したことは英独双方に精神的衝撃が大きかった<ref name="ピムロット(2000)224">[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.224]]</ref><ref name="北アフリカ(1998)72">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.72]]</ref>。トブルク陥落によりチャーチルは[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]から[[問責決議案]]を突きつけられている。ドイツではロンメルのトブルク入城が盛んに報道された<ref name="ピムロット(2000)224"/>。
 
===== 世界的な英雄に =====
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1973-012-43, Erwin Rommel.jpg|150px|thumb|1942年のロンメル元帥]]
ヒトラーは、ロンメルの戦いに感動し、6月22日付けで彼を[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に昇進させた<ref name="アーヴィング(1984)上264">[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.264]]</ref>。それにより、ロンメルは、史上最年少のドイツ陸軍元帥となった。ロンメルは、戦争が始まる前は少将に過ぎなかったが、戦争が始まって3年足らずで中将、大将、上級大将、元帥と4階級も昇進するという前例のない出世をしていた。元帥昇進の電報を受けた時のロンメルの反応については、複数の証言がある。副官の証言によると、ロンメルは、子供のようにはしゃぎ、普段は酒などをほとんど飲まなかったにもかかわらず、[[ウィスキー]]と[[パイナップル]]で祝宴をあげたという<ref name="山崎(2009)285">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.285]]</ref>。一方、別の証言によると、ロンメルは冷めた様子で「一個師団の増援を送ってくれる方がありがたかったのだが」と述べたという<ref name="クノップ(2002)47">[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.47]]</ref>。
486行目:
トブルク陥落直後がロンメルの絶頂期であり、この後はドイツ軍の戦況悪化と共にロンメルのアフリカ軍団も後退を余儀なくされ、瞬く間に下り坂となっていき、ついに北アフリカから撤退することとなった。
 
===== エジプト進攻(第一次エル・アラメインの戦い) =====
[[File:M3 Grant with knocked out Panzer I 1942.jpg|thumb|180px|1942年8月、破壊された[[I号戦車]]の横を通過する英軍[[M3中戦車|グラント]]戦車。]]
ロンメル率いる独伊軍はガザラの戦いで消耗していたが、英軍に回復の時間を与えぬために勢いに乗って1942年6月24日からエジプト領へ攻め込んだ。6月25日に独軍第15装甲師団と第21装甲師団はエジプトの港町[[メルサ・マトルー]]([[:en:Mersa Matruh|en]])に迫った。英軍第8軍司令官リッチーはメルサ・マトルーをなんとしても防衛するつもりだったが、中東方面軍司令官オーキンレックはこれに不同意であり、リッチーを罷免して自らが第8軍司令官を兼務した<ref name="山崎(2009)292">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.292]]</ref>。オーキンレックはメルサ・マトルーから東に150キロのところにある[[エル・アラメイン]]の方が防御が容易と判断していた<ref name="北アフリカ(1998)72"/>。ここは[[カッターラ低地]]の存在により作戦を展開できる領域が狭く、ロンメルが得意とする「内陸部からの大胆な迂回戦術」が使えない場所だった<ref name="山崎(2009)295">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.295]]</ref>。
494行目:
ロンメルは7月4日に攻勢を中止させ、休息と次の攻勢の準備を急がせた。しかしその間の7月10日から14日にかけて英軍はエル・アラメインの西方エル・エイサ丘陵に陣取る伊軍を強襲してきた。この攻勢で伊軍サブラータ歩兵師団がほぼ壊滅し、アリエテ師団も大打撃を受けた<ref name="北アフリカ(1998)72"/><ref name="山崎(2009)298">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.298]]</ref>。これによりこれ以上の攻勢は難しくなった<ref name="北アフリカ(1998)72"/>。だが国防軍最高司令部は東部戦線のドイツ軍の[[コーカサス]]進攻作戦に影響を与えるという事でロンメルにエル・アラメインの線で頑張るよう指導し続けた<ref name="北アフリカ(1998)73">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.73]]</ref>。その後7月を通じて英軍と独伊軍はエル・アラメインの線で一進一退の攻防を続けた<ref name="山崎(2009)298"/>。
 
===== 逆転の兆候 =====
8月4日、英国首相チャーチルがエジプト首都[[カイロ]]を訪問し、オーキンレックに対してただちに攻勢に出るよう命じたが、オーキンレックは9月中旬以前に攻勢に出ることは不可能だとして拒否したため、彼を中東方面軍司令官から解任し、[[ハロルド・アレグザンダー (初代チュニスのアレグザンダー伯爵)|ハロルド・アレグザンダー]]を後任に任じた。そして第8軍司令官に[[バーナード・モントゴメリー]]が着任した<ref name="北アフリカ(1998)72"/>。
 
503行目:
また情報収集能力にも差が広がっていた。独軍が暗号を解読することが可能だったカイロ駐在米国大使館付き武官が6月末に米国本土へ呼び戻されてしまったこと、またロンメルのアフリカ装甲軍の主力の情報部隊である第621無線傍受中隊が7月中旬の戦闘で事実上壊滅してしまったことで独軍の情報能力が大きく低下していた<ref name="山崎(2009)306">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.306]]</ref><ref name="北アフリカ(1998)132">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.132]]</ref>。またこれまでロンメルはベルリンやローマの命令を無視して行動することが多かったため、英軍は独軍の通信を傍受できてもロンメルの行動が読めない場合が多かったのだが、エル・アラメインで進撃が停止したいま、ロンメルの通信は彼の部隊の困窮をそのまま伝える物ばかりであり、その内情が筒抜けになっていた。ロンメルが病気であることも英国側は把握していた<ref name="山崎(2009)305"/>。
 
===== アラム・ハルファの戦いで敗れる =====
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-786-0315-34A, Nordafrika, Erwin Rommel bei Besprechung.jpg|150px|thumb|1942年8月のロンメル元帥]]
ロンメルのアフリカ装甲軍は満身創痍状態のまま再び攻勢に出ることにした。これ以上時間をかけると補給能力の差で英軍ばかりがどんどん強化されるからである<ref name="山崎(2009)307">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.307]]</ref>。この時点で独伊軍の戦車総数は430両ほどに回復していたが、ガソリンが確保できていなかった(ロンメルは攻勢のために3万トンのガソリンを求めていたが、8000トンしか確保できていなかった)<ref name="山崎(2009)307"/>。このためエル・アラメイン南の狭い地域から敵陣を突破してカイロまで一気に進軍するつもりだった当初の攻勢計画を、エル・アラメインの南から敵陣を突破した後に北上してエル・アラメイン東を取り、モントゴメリー率いる英第8軍の背後に浸透する計画に変更することとなった<ref name="山崎(2009)308">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.308]]</ref>。
513行目:
この戦いにおいても失われた戦車の数は英軍の方が多かったが、「砂漠の狐」の攻勢を撃退したという事実は低下する一方だった英軍の士気を回復させるに十分な効果があった。
 
===== ドイツに一時帰国 =====
一方ロンメルの病気はますますひどくなり、ドイツ本国へ一時帰国することになった。ロンメルは自分が不在の間、後任の[[ゲオルク・シュトゥンメ]]装甲大将が今の戦線を保ってくれることを期待して「悪魔の花園(トイフェルガルテン)」と名付けた凄まじい密度の地雷原(地雷の総計44万個)を独伊軍正面に作らせた。その後の9月23日に北アフリカをあとにし、ローマを経由してベルリンへ帰還した<ref name="カレル(1998)359">[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.359]]</ref>。9月25日には総統官邸でヒトラーから[[元帥杖]]を下賜された<ref name="カレル(1998)359"/>。式典出席などの公務をこなした後、10月3日にはヴィーナー・ノイシュタットの自宅に帰り、療養した。
 
一方モントゴメリーは「すぐに攻勢を行え」と命じるチャーチルを抑えて、ドイツ軍の[[IV号戦車]]に対抗できる戦車であるアメリカ製の[[M4中戦車|シャーマン戦車]]の到着を待ち、英軍戦車1000両VS独伊軍戦車300両という決定的な物量差が開いた後の10月23日夜中から「[[ライトフット作戦]]」を発動して攻勢を開始した。こうして第二次[[エル・アラメインの戦い]]が始まった。[[国防軍最高司令部]]から北アフリカで英軍の攻勢がはじまったこと、ロンメルの後任のシュトゥンメ装甲大将と連絡が取れなくなっていること(シュトゥンメは24日の戦闘中に心臓発作により死亡していた)を告げられたロンメルは10月25日に急遽北アフリカに戻った。
 
===== 第二次エル・アラメインの戦いで惨敗 =====
[[File:Panzer III exploding 1942.jpg|thumb|220px|エル・アラメイン付近で吹き飛ばされたロンメル軍の[[III号戦車]]。]]
10月25日にドイツ=イタリア装甲軍(アフリカ装甲軍がこの名前に改名されていた)司令部に到着。モントゴメリー率いる英第8軍は北と南に分かれて攻めよせてきた。英軍の北部進攻部隊はアメリカ製の高価な砲弾を無数に撃ちまくって「悪魔の花園」をあっさりと掃討していた<ref name="カレル(1998)362">[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.362]]</ref>。ロンメルはすぐに最北部に独装甲部隊を送りこんで防御を固めたが、英軍は最北部の独軍との戦闘を避け、そのやや南方の伊軍を攻撃した。そこから[[キドニー丘陵]]へ進撃し、独伊軍の防衛線を破った。
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今こそ全面攻勢の時と見たモントゴメリーは「[[スーパーチャージ作戦]]」を発動し、北部での大攻勢を開始した。もはや成す術なしと判断したロンメルは、ヒトラーにエル・アラメイン戦線から大幅に撤退することの許可を求めた。だがそれに対するヒトラーの返答は死守命令であった<ref name="山崎(2009)317">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.317]]</ref>。この死守命令にロンメルは絶望して憔悴。その間も独伊軍は大打撃を受け続けた。隷下のアフリカ軍団長[[ヴィルヘルム・フォン・トーマ]]装甲大将は死守命令に激怒して「総統命令を遵守するため」自ら最前線に赴き、突撃をかけて英軍の捕虜となった。南方総軍司令官[[アルベルト・ケッセルリンク]]の取りなしにより11月4日になってようやくヒトラーの撤退許可が下りた。だがすでに撤退の好機は逃しており、英軍から激しい追撃を受けた。撤退に際して独軍は9000人、伊軍は2万人の戦死・行方不明者をだすことになり、敗走に近い撤退となってしまった<ref name="山崎(2009)320">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.320]]</ref><ref name="北アフリカ(1998)77">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.77]]</ref>。
 
===== 米英軍西海岸上陸/チュニジアまで大撤退 =====
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1989-089-00, Nordafrika, Rommel, Bayerlein, Kesselring.jpg|thumb|150px|1943年1月、ロンメル元帥(左)、バイエルライン大佐(中央)、ケッセルリンク元帥(右)]]
11月8日には「[[トーチ作戦]]」により[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]米中将が指揮する米英軍が[[モロッコ]]、[[アルジェリア]]などの北アフリカの西海岸に上陸した<ref name="北アフリカ(1998)77">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.77]]</ref>。モロッコやアルジェリアはドイツ衛星国[[ヴィシー・フランス]]の植民地であり、はじめ同地に駐留するフランス軍守備隊が上陸してきた米英軍と交戦していたが、ヒトラーが独仏休戦協定に違反してヴィシー・フランス政府領を占領したことで現地のフランス軍は反独姿勢を強め、米英側に寝返った<ref name="北アフリカ(1998)79">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.79]]</ref>。
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ロンメルのドイツ=イタリア装甲軍がチュニジアに入った時、すでに上陸米英軍と独第5装甲軍の間で戦闘が始まっていた。しかしロンメルと第5装甲軍司令官[[ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム]]上級大将は折り合いが悪く、すぐに指揮権を巡って確執が生じた<ref name="山崎(2009)327">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.327]]</ref>。
 
===== 上陸してきた米英軍に敗北 =====
チュニジア北西部を陣取る米英軍への反攻作戦にあたってロンメルは米英軍の補給拠点であるアルジェリアの要衝[[テベサ]]([[:fr:Tébessa|fr]])を陥落させてそこから地中海へ北上し、米英軍と後方のアルジェリア諸港を遮断して壊滅させることを提案した<ref name="カレル(1998)438">[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.438]]</ref>。一方アルニムはそのような野心的な作戦を実行できる戦力は無いとして反対し、チュニジア・ファイド峠西方の米軍を強襲して北進し[[チュニス]]前方まで進出することを提案した<ref name="カレル(1998)438"/>。両者の上官である南方総軍司令官ケッセルリンクは作戦を統一しようとせず、両者にそれぞれの作戦を実行させることとした。
 
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ロンメルはこの攻勢の失敗で完全にやる気をなくしてしまったようだ。2月22日にロンメルの指揮所を訪れたケッセルリンクとヴェストフェル(ロンメルのかつての作戦主任参謀。この時にはケッセルリンクの参謀長になっていた)は別人のようにやつれて覇気の無い顔をしたロンメルを見たという<ref name="山崎(2009)333">[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.333]]</ref>。彼は司令部に鳴る電話すらとらなくなり、さっさと前線を離れて後方のスベイトラに帰ってしまった。ケッセルリンクは2月23日に第5装甲軍とイタリア第1軍(ドイツ=イタリア装甲軍)を統括する「アフリカ軍集団(Heeresgruppe "Afrika")」を新設し、その司令官にロンメルを任じているが、この人事もロンメルにやる気を取り戻させることはできなかった。ロンメルは病気療養のため、ドイツへ帰りたがるようになった<ref name="山崎(2009)333"/>。
 
===== 北アフリカから撤退 =====
[[File:1943-erwin-rommel.jpg|thumb|220px|敗色濃厚の北アフリカ戦線 (1943年 中央がロンメル)]]
1943年3月9日にヒトラーはロンメルをアフリカ軍集団司令官から解任してベルリンに呼び戻した<ref name="クノップ(2002)56">[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.56]]</ref>。ヒトラーがロンメルを解任した理由についてはよく分かっていない。ロンメルが病気で衰弱していたという説、敗北に対する処分だったという説、どう考えても北アフリカの戦況は好転しないのでロンメルの名声を守るために彼をこの戦域から外したという説、この数週間前にソ連軍の捕虜となったパウルス元帥に続いてまた一人ドイツ軍元帥が捕虜になるのを恐れたという説などがある<ref name="クノップ(2002)56"/>。アフリカ軍集団の指揮はアルニム上級大将が引き継ぎ、彼らの戦いはその後も続いたが圧倒的な連合軍の物量に抗する術は無く次々と主要な拠点や港を失い、5月13日には降伏した<ref name="北アフリカ(1998)79">[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.79]]</ref>。わずかに脱出に成功した残存戦力は車両抜きで西部戦線へと移動した。