「島倉事件」の版間の差分
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ことの起こりは、[[横浜市]][[山下町]]の米国聖書会社で、「大正5年([[1916年]])の年末に棚卸しをしたところ、在庫の聖書が1万冊紛失していることが判明した」というものであった。そこで、[[神楽坂]]署の刑事が、神田の書店街に聖書を大量に売る人間がいることを突き止め、その人物が[[白金台|芝白金台町]]に住む、キリスト教伝導師の島倉儀平と判明した。神楽坂署長に就任して間もない[[正力松太郎]]は、島倉の検挙を命じたが、3人の刑事が島倉を逮捕しに向かった際に、島倉は2階から隣家の屋根伝いに電柱を滑って逃亡した。それから1ヶ月後、島倉は[[深川八幡宮]]前で逮捕された。
島倉は山形県出身で、[[天理教]]の学校を卒業し、少しだけキリスト教の学校に通ったことがあるという。[[
その後、島倉は住居を転々とするようになるが、至る所で火災に遭遇し、その都度、火災保険金を収得していた。暮らしぶりは豊かなものになり、独身で二階借りの住居であったものが、妻帯して芝白金台町に二階建て門構えの一軒の家を買い、電話を引き、女中を雇うといった生活になった。
女中は[[小豆島]]出身で、島倉は彼女を犯し、性病を感染させていた。これを知った女中の叔父は
その女中が親元に帰るといったきり、行方不明になっていたことが分かり、島倉に疑いの目が向けられた。留置所に入れられた島倉は半狂乱状態になっており、係官の手に負えない有様でもあった。
あるとき、神楽坂署の刑事が、高輪在住時の島倉宅の火事の記録を調査するために高輪署へ行ったところ、係の署員が、その日は古い調べ物が多い日だ
{{Cquote|場所:上大崎池田山 松平康壮所有地所在の古井戸
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屍体は島倉の女中とは年齢が異なっていたのだが、女中の失踪と年月が一致するため、刑事は署に帰り、このことを報告した。そこで、島倉の妻、勝子を取り調べたところ、着衣や帯が、女中が当時身につけていたものと一致した。
そこで、正力署長は件の屍体の埋葬地の掘り返しを命じ、
== 取り調べと公判 ==
# 聖書は盗んだのではなく、主任より鍵を預かり、持ち出しを許可されていた。
# 放火の覚えはまったくない。
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# 神楽坂署の正力署長は、品川署から屍体が菓子屋の娘であるという書類を引きついでおきながら、これを隠匿したし、自分は検挙の面目を立てるべく、自白を頼まれた。
主任検事乙骨半二、予審判事久保久、裁判長[[三宅正太郎]]、弁護人[[布施辰治]]・林連・長島鷲太郎のもとで裁判が行われ、布施は島倉無罪論を展開した。被告の島倉が自白を覆し、罪状否認に至ったのは、布施の指導によるものと推定される{{誰によって|date=2020-02}}。
島倉は死して口を開かない人物に話題を持ってゆき、調べを厄介なものにした。しかし、屍体発掘の際、10数本の[[陰毛]]が女中のものであること、繻子の丸帯の切れ端が彼女の寄宿していた先の老婦人の持っていた繻子とメリンスの腹合せの帯であることが立証された。
さらに、女中の写真によって、身長が測定され、屍体の骨格と一致することも証拠だてられた。しかし、島倉は居丈高になり、すべてを否定した。公判廷における彼は狂える悪鬼の如く、三宅裁判長は後に、「人間はある場合、怒ると獣になる」と述懐している。
== その後 ==
この裁判に協力した[[小原直]]の見解では、島倉は二重人格を装ったのではないか、ということである。島倉は15,6年前に脳病を患ったことがあり、また4,5年前から神経衰弱に罹っていたということであったが、名も知らぬ男に金をやり、隣の空き家に放火させ、自分の家を類焼させ、保険金を奪取し、公判に入ってからの兇暴な振る舞いなどがから鑑みて、生まれついての極悪人、完全な二重人格だったのではないかとも推定している<ref>『小原直回顧録』(中公文庫)p147</ref>。
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== 参考文献 ==
{{No footnotes|date=2020年2月|section=1}}
* 小原直『小原直回顧録』
**原著は1966年に小原直回顧録編纂会によって刊行された。
== 関連項目 ==
* [[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]
* 『[[白魔の歌]]』
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