「幕の内弁当」の版間の差分

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白飯と副食とを組合わせ、単なるおにぎりなどと比べると手のこんだ弁当が「幕の内弁当」と呼ばれるようになったのは、江戸時代後期で<ref group="†">日本国語大辞典(小学館)があげている最古の例は[[1796年]](寛政8年)。</ref>、「江戸時代の芝居文化にあらわれた弁当」の総称と定義されることがある{{Sfn|榮久庵|1981|p=229}}。はじめは[[芝居]]見物の際に役者や裏方のために作られ、やがて観客向けのものが登場し発展した{{Sfn|榮久庵|1981|p=229}}。こうした弁当はやがて規格化され、量産されるようになった{{Sfn|榮久庵|1981|p=233}}。
 
『[[守貞漫稿]]』([[1837年]](天保8年)起稿)によると、江戸時代末期には握り飯に副食物を添えた弁当を幕の内と呼んでおり<ref {{refnest|group="†">}}「中飯 江戸は幕の内と号けて円扁平の握り飯十顆を僅に焼之也。添之に焼鶏卵蒲鉾こんにゃく焼豆腐干瓢以上是を六寸重箱に納れ人数に応じ観席に持運ぶを従来の例とす」との記述がある{{Sfn|榮久庵|1981|p=229}}。</ref>}}{{Sfn|榮久庵|1981|p=230}}、最初に作ったのは[[芳町 (花街)|芳町]]にある万久という店であった{{Sfn|榮久庵|1981|p=230}}。幕の内弁当はやがて芝居に限らず病人への見舞いや贈答にも用いられるようになった{{Sfn|榮久庵|1981|p=233}}。
 
[[明治]]以降、幕の内弁当は[[駅弁]]の様式のひとつとして広まった。明治22年(1889年)、[[兵庫県]][[姫路]]の[[まねき食品]]が、[[握り飯]]一辺倒だった駅弁に導入したのが始まりであり、12銭(現在の2千円~3千円ほど)だったという<ref>菊地武顕「あのメニューが生まれた店」16頁 平凡社</ref><ref group="†">内容は、[[経木]]の折詰に握り飯と料理屋風の副食物([[鯛]]、鶏肉、[[蒲鉾]]、[[伊達巻]]、[[金団]]、[[ウド]]、[[百合根]]、[[奈良漬]]など)を盛りつけたものであった。</ref>。(駅弁自体の[[駅弁#%E8%B5%B7%E6%BA%90|最初期は諸説あるが明治10〜17年頃]]で、握り飯と[[香の物]]が添えられた簡素なものが5銭程だった)