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'''カイ・ララ・シャナナ・グスマン'''({{Lang-pt|'''Kay Rala Xanana Gusmão'''、'''José Alexandre Gusmão'''}}、[[1946年]][[6月20日]] - )は、[[東ティモール]]の[[政治家]]。初代[[東ティモールの大統領|大統領]]、第3代[[東ティモールの首相|首相]]。現在は[[東ティモール再建国民会議]]初代党首を務める。
 
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== 概要 ==
1970年代より東ティモールの独立運動に関わり、[[インドネシア]]により逮捕され服役中であった独立時には東ティモール独立のシンボル的存在であった。独立に先立って行われた[[2002年東ティモール大統領選挙|大統領選挙]]では[[国民]]の圧倒的な支持を集め、初代大統領に就任した。同国において大統領は儀礼的な役割しか持たず、よく批判の対象となる[[マリ・アルカティリ]]元首相と比べられた。 2007年の大統領選挙には立候補せず、大統領職は[[ジョゼ・ラモス=ホルタ]]に引き継がれた。
 
ラモス=ホルタ大統領は、シャナナ・グスマン率いる東ティモール再建国民会議を中心とした野党4党(反フレティリン連合)による連立政権を発足させる為にグスマンに組閣を指示し、2007年8月8日、グスマンは首相となった。就任宣誓式で、「独立と国民の結束のため全力を尽くす」と述べた。
 
== 経歴 ==
シャナナ・グスマンは当時の[[ポルトガル]]領ティモール、マナトゥト ([[:en:Manatuto|Manatuto]]) で、(祖先をポルトガルとティモールに持つ)共に教師であった両親の元に生まれた<ref>{{cite book|author=Geoffrey C. Gunn|year=2003|title=First Globalization: The Eurasian Exchange, 1500&ndash;1800|publisher=Rowman &amp; Littlefield|pages=p.282|isbn=0742526615}}</ref>。 [[ディリ]]郊外の[[イエズス会]]の高校に学んだが、経済的理由によって 16 歳のときに退学を余儀なくされた。 その後、 様々な職業を経たのち公務員となり、同時に夜間学校で学業を継続した。 [[ポルトガル陸軍]]での3年間の兵役を終えた1971年に、ジョゼ・ラモス=ホルタをリーダーとする東ティモールの独立を目指した団体に参加し、その後 3 年の間、植民地支配に対する平和的な抗議活動に関わった。
 
1974年、[[カーネーション革命]]によってポルトガル本国の長い独裁体制が終わると、東ティモールでも非植民地化の機運が強まり、ポルトガルは4年後の総選挙の実施と独立とを約束した。 しかし翌1975年には[[東ティモール独立革命戦線|フレティリン]] (FRETILIN, 東ティモール独立革命戦線) とティモール民主同盟 ([[:en:Timorese Democratic Union|UDT]]) との間で独立に向けた激しい主導権争いが発生するとともに、混乱に乗じたインドネシア軍によって東ティモールは度重なる侵入を受けることとなった。 グスマンは1974年以降フレティリンの活動に積極的に関わり、一時ティモール民主同盟によって捕らえられるなどしたが、やがてフレティリンが実権を掌握するとフレティリンの報道担当官に就任した。
 
1975年11月28日、フレティリンは東ティモールの独立を宣言した。 しかし、東ティモールは数日後にインドネシアに侵略されインドネシアの一州として事実上併合された。 グスマンはインドネシアに対する抵抗運動に参加し、村々を回ってフレティリンへの支援と兵士の勧誘を行った。 しかし1980年代早期にフレティリンが幾度かの手痛い敗北を喫すると、グスマンはフレティリンを離れ、様々な中道的団体を支援することとなった。 これによって1980年代半ばにはグスマンはフレティリンの主たる対抗勢力のリーダーとなっていた。
 
1990年代始めには国外交渉とメディア対応に深く関わるようになり、1991年11月12日に[[サンタクルス事件|サンタクルス虐殺事件]]が起きると、多くの主要メディアのインタビューを受け世界の注意を喚起した。 一方で注目の度合いが高まるとともに、グスマンはインドネシア政府の主要な標的と目されることになった。 インドネシアによるグスマンを捕らえる軍事作戦は最終的に1992年11月に成功し、裁判の末、グスマンは反乱・銃器不法所持・分離運動の罪で終身刑を宣告された (1997年に20年に減刑)<ref name="amnesty">{{cite web|url=http://www.amnesty.org/en/library/asset/ASA21/058/1997/en/ccbaeb5a-e9e4-11dd-90b2-a9da8ab8e550/asa210581997en.html|title=Indonesia: Xanana Gusmao &mdash; A Briefing (AI Index: ASA 21/058/1997)|work=Amnesty International|date=1997-08|accessdate=2009-12-20}}</ref>。 グスマンはなお刑務所内から抵抗運動を続け、服役中、国連代表や[[ネルソン・マンデラ]]などの要人の訪問を度々受けた<ref name="amnesty" />。
 
[[スハルト]]体制終焉後の1999年8月30日、東ティモールで国民投票が行われ圧倒的多数が独立を選択した。 インドネシア軍はこの結果を受けて組織的な破壊工作を開始したが、国際的圧力の結果、[[東ティモール多国籍軍]] ([[:en:International Force for East Timor|INTERFET]]) が駐留するに至った。 その後グスマンも釈放され、2002年まで続いた国連暫定行政機構の高官に指名された。 この間、グスマンは東ティモールの統一と和平を訴え続け、一般的にも新しい国家の事実上のリーダーとみなされた。 2002年末に行われた[[2002年東ティモール大統領選挙|大統領選挙]]ではフレティリンを除く 9 つの政党から支持を受けて、[[2002年]][[5月20日]]に正式に独立した東ティモールの初代大統領に選ばれた。一方、初代首相には第一党であったフレティリンのマリ・アルカティリが就任した。
 
2006年4月、解雇された国軍兵士と政府軍との戦闘により首都ディリで激しい騒乱が勃発し、東ティモールは再び[[オーストラリア]]など外国軍の駐留を受けることになった。 グスマンはマリ・アルカティリ首相の辞任を求め、 6月にアルカティリは辞任に至った<ref>{{cite web|url=http://www.abc.net.au/news/indepth/featureitems/s1646987.htm|title=Timeline: Unrest in East Timor|work=ABC News Online|date=2006-07-10|accessdate=2009-12-20}}</ref>。
 
2007年グスマンは首相を目指すとした上で<ref>{{cite web|url=http://www.theaustralian.com.au/news/world/gusmao-to-run-for-pm/story-e6frg6so-1111113243565|title=Gusmao to run for PM|work=The Australian (Associated Press)|date=2007-03-29|accessdate=2009-12-20}}</ref>、4月の[[2007年東ティモール大統領選挙|大統領選挙]]では立候補を辞退し、新政党「東ティモール再建国民会議(CNRT)」の結党大会で党首に指名された。 6月の[[2007年東ティモール国民議会選挙|議会選挙]]において CNRT は65議席中18議席を獲得し、21議席のフレティリンに次ぐ第2党に躍進した。ラモス=ホルタ新大統領は、フレティリンおよび野党による挙国一致内閣を模索したが、フレティリンは野党と相容れず、反フレティリン4党(合計議席37)による連立政権に踏み切った。8月に大統領はグスマンに組閣を指示しグスマンは首相に就任した<ref>{{cite web|url=http://www.smh.com.au/news/world/violence-greets-hortas-pm-decision/2007/08/06/1186252623815.html|author=Lindsay Murdoch|title=Violence greets Horta's PM decision|work=The Sydney Morning Herald|date=2007-08-06|accessdate=2009-12-20}}</ref>。
 
2008年2月のラモス=ホルタ大統領の暗殺未遂事件ではグスマン首相の自宅も襲撃され、乗っていた車が銃撃されている<ref>{{cite web|url=http://www.nzherald.co.nz/world/news/article.cfm?c_id=2&objectid=10492729|author=Greg Ansley|title=Young nation on knife-edge|work=The New Zealand Herald|date=2008-02-16|accessdate=2009-12-20}}</ref>。
 
グスマンは、1999年に[[欧州議会]]より「[[サハロフ賞]]」を<ref>{{cite web|url=http://www.europarl.europa.eu/parliament/archive/staticDisplay.do?language=EN&id=1003|title=Sakharov Prize for Freedom of Thought|work=European Parliament|accessdate=2009-12-20}}</ref>、2000年にシドニー平和基金より「[[シドニー平和賞]]」を受賞した<ref>{{cite web|url=http://www.sydneypeacefoundation.org.au/previousWinners.shtml|title=Previous Winners &mdash; Sydney Peace Prize|work=Sydney Peace Foundation|accessdate=2009-12-20}}</ref>。 さらに2002年には[[欧州評議会]]より「南北賞」 ([[:en:North-South Prize|North-South Prize]]) を受賞した。
 
2006年には和解と許しをテーマとしたドキュメンタリー映画『ここに陽はのぼる &mdash; 東ティモール独立への道』 (A Hero's Journey) に自ら出演し、ナレーションを担当している<ref>{{cite web|url=http://www.luxlucis.sg/index.swf|title=A Hero's Journey|work=Luxlucis|accessdate=2009-12-20}}</ref>。
 
大統領就任前の2002年1月に一度来日し、東京および沖縄を訪問した。2004年2月と2009年3月にも[[日本]]政府より招聘を受け来日している。
 
テレビ大阪ドキュメンタリー番組 深耕アジア 第2章 (2014年1月1日放送) にて グスマン首相は独立からの11年、国民に豊かな富をもたらすための“終わりなき戦い”をインタビューで語っている。
 
== 参考文献 ==
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