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'''今村 和郎'''(いまむら わろう<ref>「今村WARAU伝(上)」 1頁。[https://archive.org/stream/japaneseinam00lanmrich?ref=ol#page/8 ''The Japanese in America''. University Pub. Co., 1872. p.9]. «Notice biografique sur fer Imamura Warō», p.89. 『国際人事典』。『新訂増補 海を越えた日本人名事典』。</ref> / かずろう<ref>『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』。『高知県人名事典 新版』。『講談社 日本人名大辞典』。『明治大正人物事典 I』。</ref>、[[1846年]][[10月22日]]([[弘化]]3年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[1891年]]([[明治]]24年)[[5月4日]])は明治時代の[[日本]]の法制[[官吏|官僚]]、[[教育者]]。
 
[[内務省 (日本)|内務省]]取調局長、法制局([[内閣法制局]]の前身)部長、[[行政裁判所]]評定官、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]を歴任し、[[法律取調委員会]]の報告委員として[[民法 (日本)#旧民法|旧民法]]のうち[[大日本帝国#統治機構|日本政府]]法律顧問[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]が起草した財産法部分(ボアソナード民法典)の制定に尽力した。また[[大学校 (1869年)#大学南校|大学南校]]([[東京大学]]の前身の1つ)、パリ東洋語学校([[フランス国立東洋言語文化学院]]の前身)、[[明治法律学校]]([[明治大学]]の前身)の教員を務めた。
 
== 来歴 ==
[[弘化]]3年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]([[1846年]][[10月22日]])、[[土佐国]][[高岡郡]][[土佐市|高岡村]]に商家の長男として生まれる<ref name="fujito2_45-46">「今村WARAU伝(中)」 45-46頁。</ref><ref>なお、[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]は今村の[[享年]]が49であるといい、したがって生年は公文書に記されている1846年ではなく1843年としている。«Notice biografique sur fer Imamura Warō», p.90. </ref>。[[土佐藩]]が[[慶応]]2年([[1866年]])に設けた[[開成館 (土佐藩)|開成館]]で[[フランス学|仏学]]教頭・松山寛蔵に学んだのち[[長崎]]に遊学し、[[長州藩]]出身の[[光妙寺三郎|光田三郎]](光妙寺三郎)とともに[[池田寛治|呉常十郎]](のち池田政懋、寛治と改名)のもとでフランス学を修業<ref>「今村WARAU伝(中)」 46-47頁。「[{{NDLDC|1874653/109}} 池田寛治]」(大塚武松編輯 『百官履歴 下』 日本史籍協会、1928年2月)。許海華 「[http://hdl.handle.net/10112/6129 幕末における長崎唐通事の体制]」(『東アジア文化交渉研究』第5号、[[関西大学]]文化交渉学教育研究拠点、2012年2月、{{NAID|110008802623}})277-279頁。</ref>。さらに新都[[東京]]に出て[[洋学|洋学者]]・[[箕作麟祥|箕作貞一郎]](麟祥)が[[明治]]2年([[1869年]])5月頃に開いた[[私塾|家塾]]・共学社に入り、同じ土佐出身の[[中江兆民|中江篤介]](兆民)とともに箕作に師事した<ref>[[倉沢剛]]著 『学制の研究』 [[講談社]]、1973年3月、239-240頁。</ref>。
 
明治3年([[1870年]])11月、前年6月に[[明治維新#中央政府|新政府]]によって設置され箕作が中博士を務めていた[[大学校 (1869年)|大学]]の少助教に就任。[[大阪英語学校 (旧制)|大阪開成所]]勤務を命じられ、翌年には[[大学校 (1869年)#大学南校|大学南校]]在勤となって[[河津祐之]]、池田政懋らとともに変則課程でフランス学を担当した。その後、中助教兼大舎長、大舎長兼少助教を経て、大学が廃され[[文部省]]が置かれた明治4年([[1871年]])7月に文部権大助教、翌8月に文部中助教となり、明治5年([[1872年]])9月の官制改正後は文部省九等出仕となった<ref name="hosei_shiso127">「今村講師の逝焉」。</ref><ref>「近代高等教育の移入と変容 : 大阪の舎密局と洋学校の場合」([[石附実]]著 『西洋の発見 : 幕末明治の異文化体験から』 [[福村出版]]、1985年10月)309頁。『[http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/20.500.12000/37800 大学南校一覧 辛未六月改]』。[[東京大学]]文書館所蔵 [http://uta.u-tokyo.ac.jp/uta/s/da/document/9b8b983a5d875c850274d00e6ebf0ada 「文部省及諸向往復 附校内雑記 明治四年 甲」 30丁裏]。[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000067339 『袖珍官員録改』明治6年1月13日改]、151丁裏。前掲 『学制の研究』 32-34頁、45-46頁、58-59頁、262-264頁、663-665頁。</ref>。この間、[[岩倉使節団]]の文部担当理事官として欧米に派遣される[[田中不二麿]]の随行を明治4年10月に命じられ、翌11月に[[横浜港|横浜]]を出港。[[アメリカ合衆国|米国]]に滞在したのち翌年[[新暦]]3月に田中に先立って[[フランス第三共和制|フランス]]に向かい、大学南校から在外研究のため欧州に派遣されていた先輩フランス学者[[入江文郎]]とともに同国の学事調査を担当した<ref>「今村WARAU伝(中)」 48-51頁。[[小林哲也 (教育学者)|小林哲也]] 「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』第20号、1974年3月、{{NAID|40000743240}})85-86頁、84頁。「松江藩フランス学先覚者入江文郎」(田中隆二著 『幕末・明治期の日仏交流 中国地方・四国地方篇(一)松江』 [[溪水社]]、1999年2月、ISBN 4874405320)11頁。鮫島文書研究会編 『鮫島尚信在欧外交書簡録』 [[思文閣出版]]、2002年2月、ISBN 478420962X、275頁、573頁。</ref>。また、7月から8月にかけて田中の[[スイス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]視察に同行。9月には田中とともに[[ドイツ帝国|ドイツ]]に滞在しており、使節団の[[司法省|司法]]担当理事官で土佐出身の[[佐佐木高行]]と面会している<ref>前掲 「『理事功程』研究ノート」 100-101頁。[[東京大学史料編纂所]]編纂 『保古飛呂比 : 佐佐木高行日記 五』 [[東京大学出版会]]、1974年3月、320-321頁。</ref>。その後[[パリ]]に戻った今村は、11月中旬以降、フランス滞在中の佐佐木理事官の世話役を務めたほか、使節団の後発隊として派遣された司法省視察団が12月にパリに到着すると同省の[[非正規雇用|雇]]となりを兼ね、翌年4月まで視察団員の[[井上毅]]、[[名村泰蔵]]らとともに[[パリ大学]]教授[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]から憲法・刑法に関する講義を受けた<ref>「今村WARAU伝(中)」 51-52頁。森川潤著 『井上毅のドイツ化構想』 [[雄松堂書店|雄松堂出版]]、2003年1月、ISBN 4841903127、46-49頁。«Notice biografique sur fer Imamura Warō», pp.90-91. [[大久保泰甫]] 「ボワソナードにかんする若干の新資料 : フランスにおける調査の報告を中心として」([[山口俊夫]]編集代表 『東西法文化の比較と交流』 [[有斐閣]]、1983年6月、ISBN 464104760X)201頁。</ref><ref name="ruiten2_86">[[国立公文書館]]所蔵 「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000000846702 今村和郎仏国在留司法ノ事務及刑民法律ヲ研究セシム]」(「太政類典・第二編・第八十六巻」)。</ref>。
 
明治6年([[1873年]])2月、田中理事官は視察を終えて帰国の途に就いたが、今村は本官を免じられてフランスに留まり、同年3月に[[栗本貞次郎]]の後任として[[フランス国立東洋言語文化学院|パリ東洋語学校]]の復習教師に採用。明治10年([[1877年]])まで同校[[日本語]]講座主任教授[[レオン・ド・ロニー]]のもとで日本語を教えたほか、ロニーが主催する日本研究会の書記を務め、『日本研究会年報』の編集も手がけた<ref>「今村WARAU伝(中)」 35-37頁。[[井田進也]]著 『中江兆民のフランス』 [[岩波書店]]、1987年12月、ISBN 4000015370、102-103頁。前掲 『鮫島尚信在欧外交書簡録』 574-575頁。[[西堀昭]] 「フランスにおける日本仏学資料」(『仏蘭西学研究』第7号、日本仏学史研究会、1976年5月)38頁。</ref>。ロニーらが中心となり明治6年9月に第1回{{仮リンク|国際東洋学者会議|en|International Congress of Orientalists}}がパリ大学で開催された際には入江文郎らとともに参加し、[[日本学|日本研究]]のために持たれた5つの部会で発表を行っている<ref>飯田史也著 『近代日本における 仏語系専門学術人材の研究』 [[風間書房]]、1998年2月、ISBN 4759910778、48-56頁。飯田史也 「[http://hdl.handle.net/10780/2277 1873年第一回国際東洋学者会議に関する史的考察 : 会員構成及び組織運営を中心にして]」(『福岡教育大学紀要』第53号第4分冊、2004年2月、{{NAID|40006262211}})。</ref>。これら[[日仏関係|日仏]]文化交流にたずさわる一方、司法省視察団が7月にパリを後にしてからも引き続き同省雇として省務ならびに刑・民法の取り調べを行うことになり、明治6年11月から年金1000円を4年間給与され、さらに[[左院]]御用掛として明治6年1月から左院が廃止される明治8年([[1875年]])4月まで月給50円を受けた。[[法学]]研究を進める機会を得た今村は、パリで私塾を開いていた法学者{{仮リンク|エミール・アコラス|label=エミール・アコス|fr|Émile Acollas}}に師事し、また法学に加えて[[オーギュスト・コント]]が提唱した[[実証主義]]を中心とする[[哲学]]の研究にも力を注いだ<ref name="ruiten2_86" /><ref>国立公文書館所蔵 「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000000843020 在仏今村和郎左院御用掛被免]」(「太政類典・第二編・第二十八巻」)、「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000000856776 旧左院雇今村和郎手当金渡過ノ分給与]」(「太政類典・第二編・第三百十二巻」)、「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000000846703 今村和郎仏国在留延期]」(「太政類典・第二編・第八十六巻」)。«Notice biografique sur fer Imamura Warō», p.91.</ref>。当時交友のあった日本人留学生には中江篤介(官費留学生一斉召還により明治7年に帰国)、アコス門下の光田三郎、[[飯塚西湖|飯塚納]](西湖)、[[西園寺公望]]がおり、渡仏前からのコント信奉者で明治6年2月から留学生総代を務めていた入江文郎とも親しく交際。入江が明治11年([[1878年]])1月に客死した際には葬儀と墓碑の建立に尽力し<ref>前掲 『中江兆民のフランス』 58頁。[[立命館大学]]編 『西園寺公望傳 第一巻』 岩波書店、1990年9月、ISBN 4000087916、237-240頁。前掲 「松江藩フランス学先覚者入江文郎」 12-15頁。「入江文郎建碑の件」([[法政大学]]大学史資料委員会編 『法政大学史資料集』第26集、2006年2月)。</ref><ref name="choji">「弔詞」。</ref>、それからほどなく、パリ大学法学部を卒業した光田とともに[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|英国]]経由で帰国した<ref name="choji" /><ref name="rireki_ko">「光妙寺三郎」([[秦郁彦]]編 『日本近現代人物履歴事典』第2版、東京大学出版会、2013年4月、ISBN 9784130301534)。</ref>。
 
明治11年6月、6年半ぶりに日本に戻った今村はただちに司法省御用掛となり、8月には[[太政官#近代の太政官|太政官]]権少書記官兼司法権少書記官に就任。同じく太政官権少書記官となった光田とともに[[内閣法制局|法制局]]専務を命じられた<ref name="hosei_shiso127" /><ref name="rireki_ko" /><ref>「今村WARAU伝(下)」 37頁。</ref>。明治12年([[1879年]])年3月、[[内務省 (日本)|内務]]少書記官に転じ、翌年9月に内務権大書記官に昇任。明治14年([[1881年]])9月に法規の起草・審査を行う[[参事院]]が新設され、主任の件に限り議事に加わる員外議官補を各省書記官が兼任することになると、内務省では今村と[[白根専一]]がこれに選ばれた。省内では法規に関わる文書の審議や法規の起草を担当する取調局に勤務し、明治13年([[1880年]])3月には[[井上毅]]に代わり局長に就任している<ref name="hosei_shiso127" /><ref>内閣法制局百年史編集委員会編 『内閣法制局百年史』 [[内閣法制局]]、1985年12月、11-13頁、342-344頁。『[[東京日日新聞]]』第2984号、1881年11月21日、1面。[{{NDLDC|779273/42}} 『改正官員録』 1879年5月、34丁表-裏]。[{{NDLDC|1087708/127}} 金井之恭ほか共纂 『明治史料 顕要職務補任録 下巻』増補再版、成章堂、1903年5月、223-224頁]。内池慶四郎著 『出訴期限規則略史』 [[慶應義塾大学]]法学研究会、1968年12月、301-302頁。[{{NDLDC|994183/457}} 内閣記録局編輯 『法規分類大全第一編 官職門七至九』 1889年12月、859-862頁]。</ref>。そのほか、明治12年7月に[[内務卿]]のもとに[[中央衛生会]]が設けられると10月から委員を務め、さらに同年12月には[[地方官会議]]御用掛を拝命。翌年の第3回地方官会議に内閣委員として出席し、会議での決議案が[[元老院 (日本)|元老院]]で審議される際も内閣委員として説明にあたった。また明治14年11月、この年8月から内務省に設置されていた登記法取調掛の委員を命じられている<ref name="hosei_shiso127" /><ref>『[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000045752 中央衛生会第一次年報]』 1-2頁、35-36頁。[[広瀬順晧]]、[[西川誠]] 「解題」(我部政男ほか編 『明治前期 地方官会議史料集成 第二期第六巻』 [[柏書房]]、1997年7月、ISBN 4760114726)453頁。高橋良彰 「不動産登記法制定前史 : 旧登記法をめぐる編纂史」(東京[[司法書士会]]会史編纂室編纂 『東京司法書士会史 下巻』 東京司法書士会、1998年11月)7-8頁。</ref>。
 
明治15年([[1882年]])9月、突如内務省を退官し、ともに[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]幹部で土佐出身の[[板垣退助]]、[[後藤象二郎]]が外遊するにあたり通訳として随行することになった。しかし[[自由民権運動]]に身を投じたわけではなく、この随行は政府の意を汲んだものだった。政府首脳との間には行政制度調査のため引き続き当地に官費留学するとの内約があり、留守宅には権大書記官の月給の半額に相当する100円が毎月給与されたという<ref>「今村WARAU伝(上)」 6頁。[{{NDLDC|779313/35}} 『改正官員録』 1882年9月、3丁裏]。</ref>。随行の自由党員[[栗原亮一]]を加えた板垣ら4人は11月に横浜を出港し、年末にはパリに到着した。板垣はそのままパリに滞在し、後藤は1月頃から3月上旬までドイツの[[ベルリン]]、次いで[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]の[[ウィーン]]を訪問。もともと後藤に請われて随員となった今村は、板垣ではなく後藤に同行したという。その後、板垣らは4月末に渡英。翌月、一度パリに戻ってから帰国の途についたが<ref>真辺美佐 「民権派とヨーロッパの邂逅 : 自由党総理板垣退助の洋行体験と政党認識」([[小風秀雅]]、[[季武嘉也]]編 『グローバル化のなかの近代日本 : 基軸と展開』 有志舎、2015年3月、ISBN 9784903426938)21-22頁、27頁。川崎勝 「[http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10005325-20160000-0163 「馬場辰猪日記」から見た板垣退助洋行問題]」(『近代日本研究』第33巻、[[慶應義塾]]福沢研究センター、2017年2月、{{NAID|120005983634}})190-191頁。前掲 『中江兆民のフランス』 183-184頁。</ref><ref name="revue27_92">«Notice biografique sur fer Imamura Warō», p.92.</ref>、今村は憲法調査の目的で欧州に派遣されていた[[参議#明治政府における参議|参議]][[伊藤博文]]の申し立てにより4月に太政官御用掛となり、そのまま伊藤の残務取調のためドイツに滞在。フランスにも何度か足を運んだのち明治17年([[1884年]])2月に帰国した。この2度目の洋行の間、今村はフランスの時事評論家である{{仮リンク|ジュール・シモン|en|Jules Simon}}、{{仮リンク|レオン・セイ|en|Léon Say}}、{{仮リンク|エドゥアール・ド・ラブライエ|fr|Édouard Lefebvre de Laboulaye}}の諸氏や、オーストリアの哲学者[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]と度々会談したという<ref name="revue27_92" /><ref>「故今村行政裁判所評定官履歴」。前掲 「「馬場辰猪日記」から見た板垣退助洋行問題」 188-189頁。国立公文書館所蔵 「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000001704677 在独逸国今村和郎ヲ御用掛ト為シ同国ヘ滞在セシム]」(「公文類聚・第七編・明治十六年・第十三巻」)、「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000001706782 在欧太政官御用掛今村和郎ヘ出発ヨリ帰朝迄ノ旅費並支度料等奏任官相当ノ額ヲ一時ニ支給シ精算ヲ問ハス]」(「公文類聚・第七編・第四十九巻」)。</ref>。
 
帰国後の明治17年3月、[[外務省|外務]]権大書記官として復職。公信局勤務となったが、翌月、参事院に転じ議案の作成・説明を担当する議官補に就任。民法・訴訟法・商法・刑法・治罪法を所管する法制部に配属された。明治18年([[1885年]])12月に参事院が廃止され[[内閣 (日本)#内閣制度の変遷|内閣]]に[[内閣法制局|法制局]]が設けられると法制局[[参事官]]となり、引き続き法制部に勤務。明治22年([[1889年]])1月には[[平田東助]]に代わり法制部長を命じられ、翌年7月の官制改革で法制局部長に更任。法制部と司法部の業務を引き継いだ第三部を主管した<ref name="hosei_shiso127" /><ref>[{{NDLDC|779331/24}} 『改正官員録』明治17 1884年4月、24丁表]。前掲 『内閣法制局百年史』 11-12頁、342-348頁、15頁、459頁、23-24頁。</ref>。この間、法律顧問ボアソナードが民法編纂局で起草した民法草案(財産法の一部のみ)が法制局審査を経て元老院で審議されるにあたり明治19年([[1886年]])6月に法制局法制部長[[周布公平]]とともに内閣委員を命じられ、さらに同年8月、[[条約改正]]の前提となる[[裁判所構成法]]などの新法を制定するために[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[井上馨]]を委員長として設置された[[法律取調委員会]]の書記を兼務した。民法制定が法律取調委員会での審議を経ることになったため翌年4月に元老院での民法草案審議が中止されたのち、井上外相に代わり委員長に就任した[[法務大臣|司法大臣]][[山田顕義]]のもとで、11月に外国人委員起草による法案の調査・説明を担当する報告委員が新設されるとこれを拝命。[[栗塚省吾]]らとともに民法組合に配属され、ボアソナード民法草案(財産法部分)の委員会審議において牽引車役を果たした<ref>[[大久保泰甫]]、高橋良彰著 『ボワソナード民法典の編纂』 雄松堂出版、1999年2月、ISBN 4841902554、75-85頁、113-120頁、130-134頁、144-150頁、156-165頁、175-190頁。「法律取調委員会における賃借権論争」(小栁春一郎著 『近代不動産賃貸借法の研究 : 賃借権・物権・ボワソナード』 [[信山社出版]]、2001年5月、ISBN 4797222077)。高橋良彰 「解題」(ボワソナード民法典研究会編 『ボワソナード民法典資料集成 第II期後期III-IV(V)』 雄松堂出版、2003年2月、ISBN 4841903062)35-46頁。</ref>。さらに、法律取調委員会に次いで元老院での審議を経た法案が明治23年([[1890年]])3月に[[枢密院 (日本)|枢密院]]に諮詢された際には取調委員箕作麟祥、報告委員[[寺島直]]とともに説明委員として派遣され、翌4月に「[[民法 (日本)#旧民法|民法中財産編財産取得編債権担保編証拠編]]」として公布された後にこの法典が非難を浴びると、『解難』と題する冊子を著して反論に努めた。また、[[井上正一]]、光妙寺三郎ら日本人報告委員が起草した[[家族法]]部分の民法草案が元老院で審議されるにあたっても、報告委員の[[磯部四郎]]、[[熊野敏三]]とともに同年5月から内閣委員を務め、この法案は10月に「[[民法 (日本)#旧民法|民法中財産取得編人事編]]」として公布されている<ref>前掲 『ボワソナード民法典の編纂』 236頁、162-163頁、399-402頁。</ref><ref name="revue27_93">«Notice biografique sur fer Imamura Warō», p.93.</ref>。このほか、公務のかたわら明治21年([[1888年]])9月より[[明治法律学校]]の講師を務め、同校の機関誌である『法政誌叢』にも論説を寄稿。民法・商法公布後、同校講師を中心に新法註釈会が設立され講義録形式の[[コンメンタール|注釈書]]『民法正義』『商法正義』が刊行されると、民法財産編の執筆を担当した<ref>『[http://hdl.handle.net/10291/16505 成立期明治大学関係者略傳]』 [[明治大学]]広報課歴史編纂資料室、1974年3月、2頁。村上一博 「明治法律学校機関誌の沿革」(村上一博編著 『日本近代法学の揺籃と明治法律学校』 [[日本経済評論社]]、2007年3月、ISBN 9784818819306)。明治大学百年史編纂委員会編 『明治大学百年史 第一巻 資料編I』 明治大学、1986年3月、243頁、347-349頁。</ref>。
 
明治23年9月、[[帝国議会]]開設に先立ち法制局第一部長[[尾崎三良]]、第二部長平田東助とともに法制局在職のまま[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選され<ref>[{{NDLDC|2945435/7}} 『官報』第2182号、1890年10月6日、68頁]。[[小林和幸]]著 『明治立憲政治と貴族院』 [[吉川弘文館]]、2002年2月、ISBN 4642037403、113-114頁。</ref>、明治24年([[1891年]])1月には設立されて間もない[[行政裁判所]]の評定官に転じた。しかし今村はこの時すでに重病であり、3月に議員を辞職<ref name="hosei_shiso127" /><ref name="choji" /><ref name="revue27_93" />。同年[[5月4日]]に[[結核#肺結核|肺結核]]のため死去し、[[小石川]]の[[護国寺|音羽護国寺]]に埋葬された。[[享年]]46<ref name="hosei_shiso127" /><ref>[{{NDLDC|2945612/2}} 『官報』第2352号、1891年5月6日、62頁]。「今村和郎氏死す」。「今村WARAU伝(下)」 42頁。</ref>。