「クラウディオ・メールロ」の版間の差分

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[[1587年]]、メールロはパルマの聖堂のオルガン奏者に任命され、[[1591年]]からは{{仮リンク|ステッカータの聖母マリア教会|en|Sanctuary of Santa Maria della Steccata}}のオルガニストも兼任している。1593年に、メールロは聖母マリア教会のオルガン(1573年ベネデット・[[アンテニャティ]])を、ブレシアの偉大なオルガン製作家一族の末裔であったコスタンツォ・アンテニャティに命じて改変を加えたことが知られている。このことは、メールロの音楽を考える上で重要な出来事である。おそらく、メールロはヴェネツィアで得た経験をもとに、彼の新しい作曲法を実現するためにオルガンの改変を求めたのだろうと考えられるからである。
 
ボローニャ派の画家[[アゴスティーノ・カラッチ]]と交友があったことが知られている。
 
メールロは晩年、ヴェネツィアやローマを幾度か訪れ、2冊の「オルガンのためのトッカータ」(''Toccate per organo'')を出版している。