「樋口祐三」の版間の差分

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[[TBSテレビ|TBS]]に所属し、[[円谷一]]のアシスタントディレクターを経て、『そんなとき私は』で監督デビュー<ref>白石雅彦『円谷一 ウルトラQとテレビ映画の時代』[[双葉社]]、2006年、p.55</ref>。
 
[[1966年]]から[[1967年|67年]]に放送された[[円谷プロダクション]]制作の『[[ウルトラマン]]』では当初は番組担当ノンクレジットでのTBS側プロデューサーとして参加し、撮影スケジュールの問題から監督としても関わる様になり、第21・31話では'''海堂 太郎'''(かいどう たろう)名義で脚本も兼任した。『ウルトラマン』で助監督を務めた大平隆は、樋口について「個性を前に出さないが、娯楽作として素晴らしい物を創る」と評価している<ref>{{Cite journal |和書 |date =2016-03-13<!--奥付表記--> |author=友井健人|title=INTERVIEW 『ウルトラマン』本編助監督 大平隆 |publisher =[[洋泉社]] |journal =別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝 |volume =vol.3 |pages=pp.234-237 |isbn=978-4-8003-0865-8 }}</ref>。
 
TBS退社後はオフィス・ヘンミに移籍。[[1989年]]には企画した『[[ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟]]』が放送<ref>白石雅彦『飯島敏宏 「ウルトラマン」から「金曜日の妻たちへ」』双葉社、2011年、pp.262-263</ref>。『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』では、第43部と最終回2時間スペシャルの2011年までプロデューサーを務めた。