「部落問題」の版間の差分

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このように、[[東日本]]では[[1980年代]]初頭までに、被差別部落の解消が広い範囲で進展したため、解放運動も局所的かつ小規模なものに留まるようになった。なお、[[北海道]]や[[南西諸島]]には、この項でいう「被差別部落」は存在していない。(琉球における宮古・八重山に対する差別と、この項で述べるものとでは、その背景が異なっている。)
 
北陸地方で部落問題が深刻化しなかったのは、大多数が[[浄土真宗]](一向宗)を信仰していたことが一因である。浄土真宗では[[武士]]、猟師、そして被差別民の「役務」・「[[家職]]」に伴う殺生は、忌避の外としていた(むしろ。浄土真宗ででは自力で本願を遂げられないると信じる「善人」よりむしろ「悪人」こそが阿弥陀如来にすがることでよって救われるべきだ存在であるという悪人正機説」が唱えられた。ここでいう「悪人」とはは自力で本願を遂げられないもの煩悩や迷いがあり悟りを開けぬものものといった意味であるが、鎌倉時代の辞書『塵袋』によると当時の「悪人」という言葉には賤業と考えられていた猟師・商人の意味もあった。このような教義から浄土真宗は全国の被差別民の救済にも熱心にとりくんだ結果、被差別民の大半が浄土真宗に帰依していくことにな浄土真宗が殺生とどう向き合っていたのかえばを挙げると[[越中国|越中]]([[富山県]])に残る「念仏行者心得か条」には「'''稼職に非ざる'''殺生を致し申す間敷事」('''仕事ではない'''殺生はしないようにしましょう)と書かれている。代々の指導者は繰り返し生きるために必要な殺生の必要性を説いている。開祖[[親鸞]]は「海川に、網を引き、釣をして、世をわたるものも、野山に、'''猪を狩り'''、鳥を取りて、生命を継ぐともがらも、商いもし、田畠を作りて優る人も、たゞ同じことなり」と言っている。また本願寺中興の祖といわれる本願寺第8世の[[蓮如]]が越前(福井県)[[吉崎御坊]]を拠点としていた際に書いたと思われる手紙([[御文]])の一節に「ただあきなひをもし、奉公をもせよ、'''猟・すなどりをもせよ'''、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり」とある<ref>[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%A1%E6%96%87%E7%AB%A0_%28%E4%B8%80%E5%B8%96%29#.E7.8C.9F.E6.BC.81.28.E3.82.8A.E3.82.87.E3.81.86.E3.80.81.E3.81.99.E3.81.AA.E3.81.A9.E3.82.8A.29 御文章一帖 猟漁]</ref>。
 
浄土真宗への帰依が深い越中(富山)において被差別民にあたる職業を担っていた「藤内」は一般集落から隔離されること無く、各集落内に分拠していたため被差別部落そのものが形成されなかった。加えて、[[1980年代]]後半以降、これらの地域では急速な[[過疎化]]が進み、[[1990年代]]以降は被差別部落も含め[[消滅集落]]になる集落が珍しくなくなった。この状態で被差別部落の隔離が維持されることはなく、意識が低かったこともあって部落問題そのものが過去のものとなりつつある。そのため、[[北関東|北関東地方]]も含めたこれらの地域では、通常の学校教育では現代の部落問題に関して教えることはまずないことから、関西以西に進学する学生を対象に、部落問題についての禁忌、タブーといったものを特別に講義する事態になっている。