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[[東京大学|東京帝国大学]]に入学後は[[東京大学運動会ア式蹴球部|ア式蹴球部]]に所属。上述の高山らと共にショートパスを多用するサッカースタイルを作り上げ、黄金期を支えた。なお、東京帝大では主将を務めた。
 
在学中の[[1930年]]5月に開催された[[極東選手権競技大会サッカー競技|第9回極東選手権競技大会]]の[[サッカー日本代表]]に選出され、2試合に出場。代表デビュー戦となった5月25日の[[サッカーフィリピン代表|フィリピン代表]]戦で4得点を挙げて日本代表初となる国際Aマッチでのハットトリック達成者となり<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019121400469&g=spo|title=小川、代表デビュー戦ハットトリック 史上3人目―東アジアサッカー|publisher=時事ドットコム|date=2019-12-14|accessdate=2020-02-27}}</ref>、試合も7-2で勝利した<ref>{{cite web|url=http://samuraiblue.jp/timeline/19300525/|title=第9回極東選手権大会 (1930.5.25)|work=[[日本サッカー協会]]|accessdate=2014-9-30}}</ref>。5月29日の[[サッカー中華人民共和国代表|中華民国代表]]<!-- 中華民国代表の後継チームはチャイニーズ・タイペイ代表ではなく中華人民共和国代表。編集の際は要注意 -->戦は3-3で引き分けたが、日本代表初の国際タイトル獲得(中華民国と両チーム優勝)に貢献した。
 
第9回極東選手権大会の前に胸部を手術して、大会後より闘病生活に入っていたが、[[1937年]][[8月7日]]に[[兵庫県]][[武庫郡]][[御影町]]の実家で死去した<ref name="asahi">「若林竹雄君が死去」 [[朝日新聞]]、1937年8月9日、2015年1月5日閲覧</ref>。死因は肺病と伝わっている<ref>「{{PDFlink|[http://www.lbsoccer.org/Archives/toukon-01.pdf 東大サッカー部誌創刊号]}}」p.24、1963年、2014年9月28日閲覧</ref>。