「飛鷹 (水雷砲艦)」の版間の差分

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1909年3月2日([[時憲暦]]2月11日<ref name="hiraoka">{{Cite journal|和書|author=[[平岡昭利]]|title=東沙島への日本人の進出と西澤島事件|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jags/4/1/4_1/_pdf/-char/en |date=2011|publisher=地理空間学会|journal=[[地理空間学会|地理空間]]|volume=4|issue=1|pages=12}}</ref>)、[[広東艦隊|広東水師]]提督{{仮リンク|李準|zh|李準 (清朝)}}の命により、「飛鷹」は[[東沙諸島]]の調査を行った<ref>{{Cite book|和書|author=長谷川亮一|authorlink=長谷川亮一 (歴史学者)|title=地図から消えた島々-幻の日本領と南洋冒険家たち|publisher=吉川弘文館|series=[[歴史文化ライブラリー]]|date=2011|page=181-182}}</ref>。これは日本人入植者[[西沢吉治]]が東沙諸島を占拠して中国漁民に被害を与えた事件に対する対応で、「飛鷹」による調査に続く外交交渉の結果、同年10月に清の東沙諸島に対する領有権が確認された(西澤島事件)<ref name="hiraoka" />。
 
「飛鷹」は再建された[[北洋艦隊]]第1艦隊に所属していたが<ref>[[#包|包(1970年)]]、857-858頁。</ref>、[[中華民国]]成立後の[[護国戦争]]中の1916年(民国5年)6月に[[李鼎新]]海軍総司令が反[[袁世凱]]の指令を発したのに従って、[[上海港]]で護国政府支持の艦隊行動に参加した<ref>[[#横山|横山(2002年)]]、54頁。</ref>。1917年(民国6年)7月に第一次[[護法運動]]が始まると、李国堂艦長の下<ref>[[#包|包(1970年)]]、890-891頁。</ref>、[[防護巡洋艦]]「[[海天級防護巡洋艦|海圻]]」などとともに[[程璧光]]海軍総長に率いられて[[北京政府]]の指揮を離脱、[[広東省 (中華民国)|広東省]]に下って[[広東軍政府]]の西南護法艦隊に参加した<ref>[[#横山|横山(2002年)]]、52頁。</ref>。1923年(民国12年)12月に西南護法艦隊の主力が北京政府に帰順した際にも、「飛鷹」は広東省に留まり、砲艦「[[永豊 (砲艦)|永豊]]」などと並んで[[広東政府]]の広東海軍の主力となった<ref name="包893" /><ref>[[#横山|横山(2002年)]]、130頁。</ref>。全国統一を果たした[[蒋介石政権|南京国民政府]]の派遣した[[陳済棠]]が広東省を支配するようになると、広東海軍は[[国民革命軍]]海軍第4艦隊に改組され、「飛鷹」はそのまま第4艦隊に所属した<ref name="横山192">[[#横山|横山(2002年)]]、192-193頁。</ref>。
 
1931年(民国20年)5月に広東省の陳済棠は[[蒋介石]]の率いる南京国民政府からの独立を表明して[[広州国民政府 (1931年-1936年)|広州国民政府]](広東政権)を樹立、第4艦隊は広東政権の第1艦隊に改組された<ref name="横山192" />。しかし、広東政権海軍の{{仮リンク|陳策|zh|陳策 (民國)}}司令官は蒋介石寄りの立場で、1932年(民国21年)5月に[[海南島]]海口へ艦隊を集結させて広東政権と対峙した<ref name="横山192" />。「飛鷹」も陳策に従って海南島に展開していたところ、同年7月7日に広東政権空軍機による爆撃を受け、撃沈された<ref name="包893" /><ref name="横山192" />。なお、「飛鷹」を撃沈した広東政権空軍は軍閥の航空戦力として有力なもので、陳策側の砲艦「中山」(旧「永豊」)も爆撃して香港に追いやったほか<ref name="横山192" />、2年後の1934年には各種軍用機90機を保有する規模に達している<ref>中山雅洋 『中国的天空(上)―沈黙の航空戦史』 大日本絵画、2007年、62頁。</ref>。
 
== 脚注 ==