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[[永禄]]9年([[1566年]])、[[千村家政]]の子として誕生。
 
当初は[[木曾義昌]]に仕え、[[徳川家康]]に従って関東に移封した義昌から、[[天正]]18年([[1590年]])12月12日、[[下総国]]十日市・へびぞね700石の知行と箕広66貫文の代官職を宛行われる<ref>『旭市史 第一巻通史編・近代史料編』、1980年、54頁</ref>。義昌の没後は[[木曾義利]]に仕えたが、[[慶長]]5年([[1600年]])に義利が不行跡により[[改易]]されると浪人し、家康に同心する。同年の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に属し、かつて[[木曾氏]]に仕えていた事から知悉していた[[中山道]]の先導役を務め、[[美濃国]][[苗木城]]・[[岩村城]]攻めで武功を挙げた。この功績により、千村平右衛門家は他の木曾衆と共に[[美濃国]][[可児郡]][[久々利村]]の[[千村陣]]構え拠点に、[[信濃国]][[伊那郡]]の[[天領]]11ヶ村<ref>上伊那の榑木買納め5ヶ村、下伊那の榑木割納め6ヶ村、[[天竜川]]流域の信州・遠州船明山榑木奉行、[[美濃国]]の[[尾張藩]]領の一部</ref>の計4000石が代々の[[預地]]となった。
 
[[大坂の陣]]では徳川方に属し、冬の陣では妻籠の関所や[[飯田城 (信濃国)|信濃飯田城]]の守備を務め、夏の陣では[[天王寺・岡山の戦い|天王寺口の戦い]]に参戦した。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])、[[徳川秀忠]]の命令で幕府直臣(表[[交代寄合]]並)・信州・遠州船明山榑木奉行のまま[[尾張徳川家]]の[[徳川義直]]附属となった。