「坂本龍一」の版間の差分

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[[1952年]]、[[東京都]][[中野区]]に生まれた。
 
父は[[河出書房新社|河出書房]]の[[編集者]]で、[[三島由紀夫]]や[[野間宏]]、[[中上健次]]などを担当した[[坂本一亀]]。母・敬子は帽子デザイナーで[[銀座]]の宝石商に勤務。母方の祖父[[下村彌一]]は[[実業家]]で[[共保生命]]取締役、[[東亜国内航空]][[会長]]などをつとめ、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]と[[京都大学]]では[[池田勇人]]と同級生で生涯の親友として付き合い、池田首相の葬儀に友人代表として[[葬儀|弔辞]]を読んだという<ref>坂本龍一著 『音楽は自由にする』 [[新潮社]]、2009年、23頁</ref>。母方の叔父(母の弟)[[下村由一]](1931〜)は[[歴史学者]]で、[[千葉大学]][[名誉教授]]。
 
通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったため、3歳から[[ピアノ]]を習いはじめる。[[学校法人自由学園|自由学園]]幼児生活団に準じた[[世田谷幼児生活団]]において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。10歳で[[東京芸術大学]]教授の[[松本民之助]]に師事し作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家は[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]であった。この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。しかし14歳の頃は「自分は[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の生まれ変わりだ」と半分信じていて、サインの練習までしていた。人生で最も影響を受けた音楽家も、ドビュッシーと[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]である<ref>commmons: schola vol.4 Ravel</ref>。