「ジャン・アンリ・ファーブル」の版間の差分

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1865年、突然、細菌学者の[[ルイ・パスツール]]が、カイコの病気を研究するために昆虫の基礎知識を得ようとファーブルを訪れている(後述)。
 
[[1868年]]、アヴィニョンのサン・マルシアル会堂で市民若い女性対象に「植物は[[雄蕊]]の[[花粉]]が[[雌蕊]]にくっついて実になる」と説明したことが大きな非難を浴びた。この事件には独学で名を成したファーブルへの妬みや、文部大臣[[ヴィクトル・デュリュイ]]の教育制度改革への宗教界やカトリック信心派政治家の反発が災いした<ref>[[#津田(1976)|ファーブル巡礼 津田(1976)]] p.175</ref>。結局、政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した({{要出典範囲|彼の生家に現在も置かれている|date=2008年10月}})。
 
長年勤めた教職を失った<ref>この前後に前述の博物館館長からも退任させられている。</ref>ファーブルはその後、家主にも追い立てられ、住み慣れたアヴィニョンを出てアヴィニョンに近い[[オランジュ|オランジェ]]の町に移住した。たまたまアヴィニョンに滞在していたイギリスの思想家[[ジョン・スチュアート・ミル]]に、ファーブルの生涯でただ一度の借金(3000フラン)を申し込んだのもこの頃である。
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