「イタリア本土 (古代ローマ)」の版間の差分

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帝国の中枢としての地位を確立したイタリア本土領は、それまで狭いローマ市内に限られていたローマ文明の富と栄光を得て大変に繁栄した。豪農達による農業生産はピークに達し、無数の職人衆が装備品・工芸品などの工業製品を広大な帝国全土に供給した。そして何より属州との独占的で支配的な貿易は、多くの大商人達によって巨万の富へと繋げられていった。
 
環境の向上によって出生率も飛躍的に改善し、[[紀元前28年]]には406万3000名であった本土の男性住ローマ市権所有者数<ref>人口調査([[ケンソル]]による人口は、ローマ市民権保持所有に対してなされたものであり、イタリア半島在住者に区切って行われたわけではない。タキトゥス記載のこの数値が女性と子供を含むかどうかについては議論があり、近年では毛利晶2018がこの議論を整理し、女性子供も含む人数だと結論ずけている</ref>))は[[14年|西暦14年]]時点で493万7000名にまで増加した。[[ケンソル]]による国勢<ref>この年の人口調査の対象外であった数が女性や子供んでいないとすれば、帝政初期の11行政区の住ローマ市権所有者数既に1000万名を超えていたとみ可能性も考えられてい</ref>
 
=== 帝政中期 ===
[[File:Sesterius-Antoninus Pius-Italia-RIC 0746a.jpg|thumb|300px|アントニウス・ピウス帝時代に発行された通貨。裏面にはイタリアを擬人化した女神像が描かれている。]]
[[ユリウス・クラウディウス朝]]、[[フラウィウス朝]]、[[ネルウァ=アントニヌス朝]]を経て[[セウェルス朝]]に入った辺りから、帝国の繁栄に陰りが見え始める。イタリア本土もまた、[[カラカラ]]帝が[[アントニヌス勅令]]によって全属州民を本国民としたことで、帝国本土としての立場がほとんど失われてしまった。セウェルス朝断絶後の[[3世紀の危機]]([[軍人皇帝時代]])は内乱と蛮族の侵入を招き、3世紀末には遂にイタリア本土にまで戦火が及ぶようになった。
 
このような状態で皇帝となった[[ディオクレティアヌス]]帝は新たな制度改革を推し進め、いわゆる[[テトラルキア]]制による帝国領土の4分割を行った。テトラルキアにより帝国の属州は4つの地方領へと再編成され、また皇帝権も2人の正帝(東方正帝・西方正帝)と2人の副帝(東方副帝・西方副帝)によって4つに分権された。改革の結果、帝国を実質的に支配する皇帝や副帝たちはそれぞれの地方領の中心都市に常駐するようになり、首都ローマと特別区支配統治代わりに[[首都{{仮リンク|ローマ市長官]]|praefectus urbi}}が行うことが一般となった。帝国の首都は引き続き[[元老院 (ローマ)|元老院]]がある[[ローマ市]]とされていたが、皇帝や副帝が常在する各地方領の主要都市が帝国の新たな政治・経済・軍事の中心となり、元老院と皇帝がともにローマ市にあった時代に比べれば帝都ローマの地位は低下した。そして本土の要であるローマ市の失墜はイタリア本土の重要性をも失わせた。
 
またテトラルキア制の中で、イタリア本土はイタリア・[[北アフリカ]]といった南西部を担当する西方皇帝の地方領へ編入されたが、西方皇帝支配下のイタリア本土は「特別首都近郊管区」と「食糧供給区」へと更に分けられていた。これはイタリアローマ市へ本土としての地位食糧供給を維持するため、地方領の中心都市[[メディオラヌム]]の支配を受ける地域(食糧供給区)とは別に、それまで通り帝都ローマを中心とする地域(特別首都近郊管区)を設けたものである。加えてイタリア地方領を差配する西方皇帝(西方正帝)にとって、イタリア本土無しに他の地方領と対等な働きを行うことは不可能であった{{要出典|date=2020年3月}}。故にイタリア本土は行政区を再編した上で食糧供給区と特別首都近郊管区に分けられたが、これは長年一致してきた本土行政区が2つに分断されることを意味した(ただし食糧供給区と首都近郊区の長官は同一人物が兼任していた<ref>この件はイタリア語版([[:it:Italia Suburbicaria]])に登場しているが、出典がない</ref>{{要出典|date=2020年3月}})。一方、[[シキリア]]や[[サルデーニャ|サルディニア]]・[[コルシカ]]といった[[イタリア離島部]]は新たに特別首都近郊管区へ編入された。
 
[[File:Tetrarchy map3.jpg|thumb|300px|初期テトラルキアの区分]]
 
* '''[[イタリア特別首都近郊管 (古代ローマ)|イタリア首都近郊管区]]'''(Italia suburbicaria)
** 「トゥーシア・エト・ウンブリア」(Tuscia et Umbria)
** 「ウァレリア」(Valeria)
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** 「シキリア」(Sicilia)
** 「サルディニア・エト・コルシカ」(Sardinia et Corsica)
* '''イタリア食料供給区'''(Italia annonaria)
** 「ウェネティア・エト・ヒストリア」(Venetia et Histria)
** 「アエミリア・エト・リグリア」(Aemilia et Liguria)
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帝国の衰退により蛮族侵入が帝国の最重要課題となると、皇帝は侵入に合わせて東方の土地に赴く機会が増えるようになった。
 
[[コンスタンティヌス1世]]が皇帝に即位すると、コンスタンティヌスは東方皇帝領であった[[コンスタンティノープル]]を新たな東方の拠点として宣言、首都ローマ市に倣って[[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|元老院]]など幾つかの行政施設をコンスタンティノープルにも設けた。しかし、当時はコンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは存在しなかったようである<ref>井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫現代新書〉、20081990p69-71</ref>。コンスタンティヌス以降の皇帝達もコンスタンティノープルに常住したわけではなかったし、当初は[[プラエトル|法務官]]、[[護民官]]、[[クァエストル|財務官]]、首都長官といった重要な首都機能もコンスタンティノープルには整備されていなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ<ref>ベルナール・レミィ([[#レミィ2010]]>p67)によると、ディオクレティアヌス以来財務官は「元老院の息子が二十五歳(?)で就任するだけのものとなり、もはや元老院への加入を認めるものではなくなったように思われる」とし、法務官は、「首都担当法務官と後見担当法務官の二つのポストだけしか残されなかった」としている</ref>、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる{{要出典|date=2020年3月}}<ref>英語版[[:en:Praefectus urbi]]の記事に出典なしで記載されているため、要出典。なお、5世紀初頭の史料[[ノティティア・ディグニタートゥム]]にはコンスタンティノープル長官(Praefectus urbis Constantinopolitanae)が登場し、ローマ市長官と同格の順位に記載されている</ref>)。コンスタンティノープルがその重要性を増した[[5世紀]]後半においてもローマ帝国全体の首都はローマ市とされており、その権威は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルより上位のものとされた<ref>『世界大百科事典』平凡社、1998年、ローマ理念</ref>。
 
テオドシウス帝の死後、東方皇帝と西方皇帝の対立が深まり、[[西ローマ帝国]]・[[東ローマ帝国]]とも呼ばれる東西の政治的分離が発生する。その中でイタリア本土は帝国西方の中心地となったが、西ローマ皇帝の宮廷はテトラルキア制に従ってメディオラヌムのままであり、また後に宮廷が移された際も帝都ローマではなく[[ラヴェンナ]]が選ばれた。「''[[ノティティア・ディグニタートゥム]]''」によれば、[[420年]]に本土イタリア行政区の大規模な再編を行ったという。
 
しかし相次ぐ蛮族の侵入に西方皇帝は有効な対処を行えず、蛮族が幾度も本土イタリアを脅かす日々が続いた。[[フン族]]の[[アッティラ]]によって本土イタリア北部は壊滅的な打撃を受け、また[[ヴァンダル族]]によって帝都ローマが略奪されるなど、3世紀の危機にもなかった戦禍が本土イタリアを襲った。5世紀後半に入ると西方帝国の属州はほとんど蛮族に奪われ、更に本土イタリアも皇帝の後ろ盾となった蛮族によって統治される時代となっていた。
 
476年に[[ロムルス・アウグストゥルス]]の退位と、[[オドアケル]]による西方帝位の東方皇帝への返還によって西ローマ帝国からローマ皇帝の地位は消滅した。以降、オドアケルは東方皇帝より「イタリア領主」の地位を与えられ、ローマ皇帝の代官としてイタリア本土を統治した。オドアケルの後には東ゴート王国の王がおおむねこの地位を踏襲し、77年間にわたってこうした支配方法が続いた。
 
533年、東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]の命を受けた[[ベリサリウス]]将軍によって東ゴート王国は滅ぼされ、イタリア本土は再びローマ皇帝の支配下へと戻った。しかしユスティニアヌス1世はイタリア本土を本国とすることはなく、「ラヴェンナ地方区」として総督による統治を継続した。しかし、6世紀中にはイタリア本土全域が[[ランゴバルト王国]]の手へと移った。
 
[[8世紀]]に[[ランゴバルト王国]]が滅ぼされた後は、[[教皇領]]や[[神聖ローマ帝国]]・[[ヴァイキング]]・[[アラブ人]]などによる分立の時代を迎える。イタリア本土が再び一つの領域として大部分がまとめられるのは、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ・ピエモンテ王国]]によるイタリア統一後のこととなる。
 
== 引用 ==
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*[http://www.telemaco.unibo.it/rom/italia/oggetto.htm Geographical spaces in Roman history] (Italian)
*[http://members.ozemail.com.au/~igmaier/map.htm Map of the Roman state c. 400] (Compilation 'notitia dignitatum')
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ベルナール・レミィ|translator=[[大清水裕]]|year=2010|title=ディオクレティアヌスと四帝統治|publisher=[[白水社]]|ref=レミィ2010}}
* 毛利晶「古代ローマのケーンスス : 西洋古代国家と人口把握の試み (特集 人口と権力(2))」歴史学研究 = Journal of historical studies (978), 13-23, 2018-12
 
績文堂出版
 
== 外部リンク ==