「ジャン・アンリ・ファーブル」の版間の差分

ミルから借金した年とルキアン博物館館長を退職した年を明記
(早世した6人がマリーとの子であることを記述)
(ミルから借金した年とルキアン博物館館長を退職した年を明記)
[[1868年]]、アヴィニョンのサン・マルシアル会堂で若い女性を前に「植物は[[雄蕊]]の[[花粉]]が[[雌蕊]]にくっついて実になる」と説明したことが大きな非難を浴びた。この事件には独学で名を成したファーブルへの妬みや、文部大臣[[ヴィクトル・デュリュイ]]の教育制度改革への宗教界やカトリック信心派政治家の反発が災いした<ref>[[#津田(1976)|ファーブル巡礼 津田(1976)]] p.175</ref>。結局、政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した({{要出典範囲|彼の生家に現在も置かれている|date=2008年10月}})。
 
長年勤めた教職を失った<ref>この前後に前述の博物館館長からも退任させられている</ref>ファーブルはその後、家主にも追い立てられ、住み慣れたアヴィニョンを出てアヴィニョンに近い[[オランジュ|オランジェ]]の町に移住した。たまたまアヴィニョンに滞在していたイギリスの思想家[[ジョン・スチュアート・ミル]]に、ファーブルの生涯でただ一度の借金(3000フラン)を申し込んだのもこの頃は1870年<ref>[[#津田(1976)|ファーブル巡礼 津田(1976)]] p.286</ref>である。またルキアン博物館館長の職は、1873年に何の予告もなしに解かれてしまった1870年<ref>[[#津田(1976)|ファーブル巡礼 津田(1976)]] p.200</ref>
 
文献の執筆で生計を立てるようになったファーブルはオランジェにおいて『昆虫記』の第1巻を執筆、発刊する(1878年)。しかし、この頃にファーブルは次男・ジュール(ファーブル同様に昆虫や植物に傾倒していた)を病気で先立たれ(1877年)、またファーブルが気に入っていた家の前の並木を家主が切ってしまったこともファーブルを意気消沈させた。病に倒れたこともあり、結局、ファーブルはオランジェでの生活に見切りをつけ、一家は近郊のセリニアンの村に移り住む。ファーブルは大きな試練に立たされるが、この後、『昆虫記』の執筆に注力するようになる。
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