「桜田門外の変」の版間の差分

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=== 明治維新後 ===
[[1884年]](明治17年)の[[華族令]]施行に伴い、旧藩主・[[井伊直憲]]は[[伯爵]]に叙されたが、この爵位は「減封後の石高」を基準としたものであった。しかし、草高35万石で近江半国領主という[[国主|国持大名]]に準ずる旧幕府の格式に沿うならば、1階級上の[[侯爵]]となるはずとの思惑が井伊家の周辺にあった。そのため「安政の大獄の恨みで新政府に冷遇され、伯爵に落とされた」との説が井伊家周辺に流れた。しかし、減封後の彦根藩・現石は9万石程度であったし、さらには仮に減封がなかったとしても国持大名で現石15万石を基準とする侯爵の基準は満たしていない。そもそも爵位は[[版籍奉還]]時の現石が基準であり、安政の大獄の恨みなどというのは全くの俗説である。彦根藩主・直憲は既に[[鳥羽・伏見の戦い]]時点で討幕もしくは勤王の姿勢を示しており、彦根藩士は[[流山市|流山]]で元[[新選組]]・[[近藤勇]]を逮捕するなどして、[[戊辰戦争|戊辰戦]]功で[[賞典禄]]2万石を[[新政府軍]]側から与えられていた。また直憲は[[有栖川宮]]家(斉昭正室の実家)から[[井伊宜子|宜子]]夫人を迎えた。
 
== 水戸藩・水戸徳川家のその後 ==