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野村克也後援会会長 桂米朝のいきさつ
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== エピソード ==
* [[野村克也]]が、人生で大きく影響を受けた人物である。[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]選手兼任監督時代、妻・[[野村沙知代|沙知代]]の知人であったことで、夫人から紹介され、読書を勧められたことがきっかけで、よき相談相手となっていた。[[1977年]]の南海監督解任時には、妻が南海球団によって[[スケープゴート]]にされたと激怒した。野村がこのまま現役引退したほうがいいのかと相談をしたところ、「42歳ならまだ若い。当時のフランスの[[エドガール・フォール|フォール]]首相は、75歳で[[ロシア語]]の勉強を始めた」という事例を語り、何事も生きているうちは勉強という「生涯一書生」という言葉を野村に贈った。それにあやかり「'''生涯一捕手'''」という、のちの代名詞が生まれた。また現役引退後、大企業の経営者相手の講演の際、何を喋ったらいいかわからず、2時間の予定が30分ほどで終わることもしばしばあった。そこで「経営者の人たちは、[[経営学]]の話なんか誰も興味が無い、あなたの野球に纏わる話を聞きたいから集まってくれている。絶対に野球の話以外はしたらいけない」とアドバイスを送った。
*桂米朝のお弟子さん米二師匠曰く「私が内弟子で、桂米朝の家に住み込み修業をしていた頃。家の前にどでかいリンカーンが横付けされました。あんな大きな車を間近で見たのは後にも先にもこの時だけですわ。運転していたのは野村克也氏。南海ホークスを解任されたばかりでした。うちの師匠のところへ挨拶に来られたのです。うちの師匠は野球とはあまり縁のない人でした。当時、日本テレビの「春夏秋冬」という番組にうちの師匠がレギュラー出演していましたが、一緒に出ておられた草柳大蔵氏から頼まれたそうです。「野村克也の後援会をつくるから発起人になってくれ」と。野球のことなんかなんにも知らんのに引き受けはったんですな。それでわざわざ挨拶に来はったんです。」
 
== 著書 ==