「ワシーリー・スターリン」の版間の差分

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空軍学校においてワシーリーは、父スターリンの威光を重役達が恐れるのを利用して、[[ツァーリ]]の如く振る舞ったという。他の生徒とは別に個室を与えられ、将校食堂で食事を取り、外出許可まで与えられていた。しかし、この事はスターリンに密告されてしまい、激怒した彼は校長に「いかなる特別扱いも行ってはならない」と厳命を下した。以降はワシーリーも普通の生徒と同じ扱いになったが、こうした逸話にも関わらず、陽気な性格から他の生徒達との関係は良好であり、生徒隊長選抜の際には推薦もされた。
 
[[1940年]][[4月]]、空軍学校卒業後にパイロットとしてモスクワ郊外の第16航空連隊に配属され、軍人としての経歴が始まった。先の命令にも関わらず、相変わらず父の威光を活用して不正や出世を重ね、人材不足であったとはいえ、異様なスピードで昇進を重ねた。[[1941年]]6月の[[独ソ戦]]勃発時、空軍参謀本部附属の監察飛行士であったワシーリーは、[[12月]]に20歳の若さで少佐に任官、砲兵中尉として前線で中隊を率いて戦っていた兄を追い越してしまった(但し、パイロット空軍士官は一般的に、陸海軍や地上勤務それより空軍士官に比べ、さかん程度の階級までは若齢で昇進が進む傾向はある)。そればかりか数ヵ月後に更なる昇進を重ね、[[1942年]][[2月]]には21歳で大佐にまで栄達している。なお、実務面では26回の出撃で撃墜2機・協同撃墜3機と少ないながら戦果も挙げている。
 
兄ヤーコフがドイツ軍の捕虜となり、1943年に収容所で死亡した後も、空軍の青年将校として気侭な日々を送り、戦後の[[1946年]]には遂に25歳での少将昇進が決定された。翌47年には中将に昇進、[[モスクワ軍管区]]の空軍司令官に抜擢されている。だが、ワシーリーは一パイロットとしてはともかく、指揮官としての実務経験が皆無であったため、事実上の名誉職でしかなく、また本人に意欲も無かった。そのため、専ら地位を活用して趣味のスポーツ振興に熱意を注いだ。