「ローマ皇帝」の版間の差分

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本項[[ローマ皇帝#「オクタウィアヌスのローマ皇帝権の成立過程]]で詳述されているオクタウィアヌスの皇帝権は、19世紀の[[テオドール・モムゼン]]以来の法律に基づく権限掌握研究であり、当時の主要歴史学方法論であった法制史的分析に基づいている。モムゼンの時代は『神君アウグストゥス業績録』の完全な同時代文書が発見されておらず、伝世文献史料では「余は・・・万人に勝ったが、職権においては他の何人にも些かも勝らなかった」と欠損部分があり、モムゼンは欠損部分をギリシア語碑文を参考に「公職の位においては」と補って解釈した<ref>[[#南川1995]]p7</ref>。しかしモムゼン死後発見され、1927年に校訂版が出たアンティオキア碑文により、欠損部分は「権威においては」であることが明らかにされ、皇帝権の権力の重要な源泉が古代ローマ人固有の概念であり共同体の秩序を支える指導的な人物の持つ特性である「権威」にあることが判明したため<ref>[[#南川1995]]p8</ref>、皇帝権についても[[クリエンテス|クリエンテラ―パトロキニウム]](庇護関係)論を軸とした社会史的分析が行われることになり、1937年のプレマーシュタインの論文<ref>A.v.Premerstein,Von Werden und Wesen des Prinzipats,Abh.Bayer. Akad.der Wiss., N.F.15,Munchen,1937</ref>、及び1939年のサイムの『ローマ革命』で帝国最大の保護者としてのオクタウィアヌスの皇帝権確立という見解が確立した。<ref>[[#南川1995]]p8</ref>。このように、プレマーシュタインの研究の成果は、「その後受け入れられて定説化したが、アウグストゥスが共和政の有力者たちのクリエンテーラを奪って保護-庇護関係を自己のもとに統一し、すべての市民と兵士のパトロンとして君臨したとする彼の見解が支配的になったために、皇帝権力とクリエンレーラ関係をめぐる議論は、アウグストゥスをもって収束してしま」<ref>[[#南川1995]]p15</ref>い、日本でもアウグストゥスの権力解明に研究が注がれたため、帝政期の研究者である南川高志は、「アウグストクス以後の諸皇帝の治世における実際の皇帝政治を分析してその本質を捉えようという視点が欠落して」しまった、と述べている<ref>[[#南川1995]]p14</ref><ref group="注">なお、南川は「ローマ皇帝権力の本質と変容」([[#笠谷2005年]]p218)において1980年代のファーガス・ミラーの研究以降、「すべてをパトロネジに還元して説明することができなくなり」「ローマ皇帝を「最高にして最大のパトロン」と定義することも再考を要するようになった」としている</ref>。
 
このように、帝政期の皇帝権については欧米に限らず日本でもまだ研究途上にある。後期帝政について長らくモムゼンの確立した専制君主政が定説となっていたが、現在では専制君主政という言い方は完全に廃れてしまった、とされる。<ref>[[#レミィ2010]]の訳者大清水裕のあとがき、p152</ref><ref group="注">ただし、大清水裕『ディオクレティアヌスと専制君主政」『歴史と地理―世界史の研究』242、2015年p61には「ディオクレティアヌスに始まる「専制君主政」という見方は、古代末期研究の進展とともに大きく見直しを迫られている」とし、この文言を引用した南雲泰輔は「2010年や2012年の主張から後退しているように見える」とコメントしている(南雲泰輔『ローマ帝国の東西分裂』2016年岩波書店、註p47,註(5)</ref>。このような状況であるため、帝政期の皇帝権の変化については断定的なことはあまり指摘できない段階であるが、そのような中でもいくつか指摘できることがあり、例えば「ウェスパシアヌス帝の最高指揮権に関する法律」は、最高指揮権(インペリウム)の所有者(インペラトル)は、従来の法律、平民会決議、元老院決議に拘束されないことが明記されている点で重要である。<ref group="注">法律では、アウグストゥスとティベリウスと同様の権限を有する、と記載されている。アウグストゥスとティベリウスが法律に拘束されなかったのかが事実かどうかはともかく、ウェスパシアヌスの時代にはそのように思われていたということが、この法律から確認されるわけである。法律全文の日本語訳は[[#古山2002]]所収</ref> セウェルス朝に活躍した法律家のウルピアヌスも「皇帝の発言は法的な力を持つ」と記載(『法学提要1巻2章6節)して<ref>[[#レミィ2010]]p56</ref>おり、元首政の時代が下るに従い皇帝の立法権が強化され、その発言が勅令(edictum)や勅答(rescriptum)として法律として運用されるように強化されていった点は指摘できる。
 
一方で皇帝の専制化がすすむにつれて、「元首政時代の初期に比べて、その後半になると、皇帝の権威を高める儀礼や宗教的行為が増え」<ref>南川p219[[#笠谷2005]]所収「ローマ皇帝権力の本質と変容」</ref>、三世紀の中頃の軍人皇帝の時代となると、「軍隊というむき出しの暴力に支えられた皇帝には、支配を正当化するために権威が必要とな」り、「権威の確立のために儀礼を導入した、と見ることができる」<ref>南川p221[[#笠谷2005]]所収</ref>その結果「多くの儀礼を伴う「神聖な」皇帝が生まれていった」とされるが、三世紀については「政治・軍事・そしてイデオロギーや宗教など、それぞれの領域で有意義な説明が試みられているものの、社会の変化をも見据えた総合的な説明が達成されているようには見えない」段階とされる。<ref>南川p220[[#笠谷2005]]所収</ref>