「交響曲第3番 (ブラームス)」の版間の差分

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(「音楽・音声外部リンク」(全曲試聴)演奏リンク1本入替《非公開化判明につき》)
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[[ヨハネス・ブラームス]]の'''交響曲第3番'''[[ヘ長調]]作品90({{lang-de|'''Sinfonie Nr. 3 in F-Dur op. 90'''}})は、[[1883年]]5月から10月にかけて作曲された。ブラームスの[[交響曲]]の中では演奏時間が最も短い。初演者[[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]]は、「この曲は、ブラームスの[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|『英雄』]]だ。」と表現した<ref>{{Cite web |author=中田麗奈 |url=https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-symphonie-3 |title=ブラームス(1833~1897):交響曲第3番ヘ長調作品90 |work=曲目解説 |publisher=千葉フィルハーモニー管弦楽団 |accessdate=2020-03-05}}</ref>。しかし、当のブラームスはこの曲の[[標題音楽|標題的]]な要素についてはなにも語っていない。
 
== 作曲の経緯 ==
[[1877年]]に[[交響曲第2番 (ブラームス)|第2交響曲]]を作曲したブラームスは、その翌年から[[ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)|ヴァイオリン協奏曲]](1878年)、『[[大学祝典序曲]]』及び『[[悲劇的序曲]]』(1880年)、[[ピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第2番]](1881年)といった管弦楽作品を発表する。
 
第2交響曲から6年後の[[1883年]]5月、ブラームスは温泉地として知られる[[ヴィースバーデン]]に滞在し、第3交響曲をこの地で作曲した。第1楽章については、[[1882年]]の夏ごろからとりかかっていたという説もあるが確証はない。ヴィースバーデンでは、友人達との親交や、とりわけ若い[[アルト]]歌手ヘルミーネ・シュピースとの恋愛感情がこの曲に影響を及ぼしたともいわれる。同年[[10月2日]]にブラームスは[[ウィーン]]に戻り、[[11月9日]]と[[11月22日|22日]]に[[イグナーツ・ブリュル]]と2台のピアノ版による試演会を開いている。ブラームスは50歳だった<ref>{{Cite web |author=中村彩(ヴァイオリン) |url=http://www.shinkyo.com/concert/p222-1.html |title=ブラームス:交響曲第3番 |publisher=新交響楽団(アマチュアオーケストラ) |accessdate=2020-03-05}}</ref>
 
== 初演 ==
1883年[[12月2日]]、ハンス・リヒターの[[指揮 (音楽)|指揮]]により、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の演奏会で初演された<ref>{{Cite web |author=舩木篤也 |url=https://www.tpo.or.jp/concert/pdf/20150922program.pdf |format=PDF |title=ブラームス(1833-1897) 交響曲第3番ヘ長調作品90 |work=楽曲解説(第869回オーチャード定期演奏会) |publisher=[[東京フィルハーモニー交響楽団]] |accessdate=2020-03-05}}</ref>。結果は大成功で、ブラームスは再三カーテンコールを受けた。
 
当時のドイツ音楽界は、ブラームス派対[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]派という陣営の対立が激化していたが、1883年にワーグナーが没してまもない時期であり、ワーグナー派の強い反発のなかでの初演だった。この初演を聴いた批評家でブラームスの友人でもあった[[エドゥアルト・ハンスリック]]は、[[交響曲第1番 (ブラームス)|第1交響曲]]、[[交響曲第2番_(ブラームス)|第2交響曲]]と比べても「芸術的に完璧な作品として心を打つ。」と絶賛している。一方、ワーグナー派で反ブラームスの急先鋒でもあった[[フーゴ・ヴォルフ]]は、「まったく独創性というものが欠けたできそこないの作品である」とほとんど中傷に近い批評を寄せた。