「垓下の戦い」の版間の差分

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漢軍は楚軍を追って固陵(現在の[[河南省]][[周口市]][[淮陽区]]の北西)という所まで進み、同時に[[韓信]]と[[彭越]]にそれぞれの兵を率いて共に楚軍を討つように命じ、陽武(現在の河南省周口市[[太康県]])に兵を進めた。しかし両者は姿を見せず、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。
 
張良は劉邦に対して韓信・彭越が来ないのは2人に恩賞の約束をしていないからだと言い、韓信には陳から東の海に至るまでの全ての土地を与え、彭越に対しては睢陽より北の穀城に至るまでの土地を与え、梁王(魏王)とするようにと進言、劉邦もこれを容れ、韓信・彭越に使者を送った。その結果、2人は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。さらに[[劉賈]]の軍も彭越と合流、楚の[[大司馬]][[周殷]]も寝返り、これらの軍勢は次々と洨城(現在の安徽省[[蚌埠市]][[固鎮県]])付近の垓下の劉邦の下に集結した。
 
== 四面楚歌 ==