「サルサ (音楽)」の版間の差分

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脚注 レイバレット
ジョー・クーバに脚注
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===1960年代===
 
[[キューバ革命]]が1959年に起こり、1961年1月にアメリカ合衆国とキューバの国交が断絶すると、ニューヨークにはキューバの楽団はほとんどいなくなり、代わりにプエルトリコ系のミュージシャンらが優勢を占めるようになった。大規模な楽団は姿を消し、ヒスパニック系の若者には[[アフリカ系アメリカ人]]のコミュニティから生まれた[[R&B]]や[[ドゥーワップ]]、[[ソウルミュージック]]の人気が高く、従来のポピュラーなラテン音楽の人気は下火となっていた。その過程において、[[チャーリー・パルミエリ]]、[[ジョニー・パチェーコ]]、[[レイ・バレット]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/ray-barretto-mn0000341422</ref>などのミュージシャンが、ソウル・ミュージックとマンボを融合させて、60年代初頭にはヒスパニック系コミュニティで[[ブーガルー]]のブームが起こった。
 
1964年、ジョニー・パチェーコは、法律家のジェリー・マスッチとともに[[ファニアレコーズ]]を創立する。[[ウィリー・コロン]]、[[エクトル・ラボー]]、[[ジョー・バターン]]などの若手アーティストのヒットを飛ばして地盤を固め、後にティコ、アレグレを吸収する一大レーベルとなる。その一方では、かつてルンバやマンボの時代に隆盛を極めたナイトクラブやホールが次々と閉店する中、ミュージシャンの間ではデスカルガ(ジャムセッション)が頻繁に行われ、ティコやアレグレといった数少ないニューヨークのラテン系レーベルの企画で録音された。一例として、1966年5月23日にヴィレッジゲイトでライブで録音された盤がある。デスカルガはプエルトリカンのアイデンティティを模索するひとつの運動となり、毎夜のように行われていた。66年にはジョー・クーバも音楽的成功を収めた<ref>Steward, Sue 1999. Salsa: the musical heartbeat of Latin America. Thames & Hudson, London. p. 60</ref>。またファニア・レーベルのアーティストのショウケースとして結成された[[ファニア・オール・スターズ]]は、1968年6月8日にレッド・ガーターで第一回興行を行った。
 
1964年、ジョニー・パチェーコは、法律家のジェリー・マスッチとともに[[ファニアレコーズ]]を創立する。[[ウィリー・コロン]]、[[エクトル・ラボー]]、[[ジョー・バターン]]などの若手アーティストのヒットを飛ばして地盤を固め、後にティコ、アレグレを吸収する一大レーベルとなる。レーベルのアーティストのショウケースとして結成された[[ファニア・オール・スターズ]]は、1968年6月8日にレッド・ガーターで第一回興行を行った。
 
アフリカ系アメリカ人の若者が[[ブラックパンサー党]]<ref>ボビー・シール、ラップ・ブラウンらのラジカルな政治団体。</ref>を結成したことに触発されたニューヨリカンの若者たちが[[ヤングローズ]]を結成するなど、1960年代後半は若者が政治活動に強く関わった時代であった。この社会変化の中でファニア・オール・スターズは、長く親しまれてきたソンや、プエルトリコ独自の音楽である[[プレーナ]]を採り入れた曲でシングルヒットを出し続け、1971年8月26日にはナイトクラブチーターでの歴史的なコンサートを行った。その後彼らは世界中をツアーし、サルサの認知に貢献した。ファニア・オール・スターズは1973年8月24日に、ニューヨークの[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]]で4万人の観衆を前にコンサートを行った。この時は興奮した観衆がフィールドになだれ込んできて途中で中止となる事態となった。
 
===1970年代===