「日本への原子爆弾投下」の版間の差分
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=== トルーマン政権と軍の攻防、和平工作の破綻 ===
ルーズベルトが急死したことによって、急遽、[[アメリカ合衆国副大統領]]だった[[ハリー・S・トルーマン]]が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に昇進した。
[[ナチス・ドイツ]]降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人である[[レオ・シラード]]が、後の[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ジェームズ・F・バーンズ]]に原子爆弾使用の反対を訴えている<ref>ローズ (1993) 下 pp.402–406. ウィアート (1982) pp.237–246.</ref>。
バーンズはマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、[[大日本帝国]]に対する原爆攻撃を支持しており、[[天皇 [[ファイル:James Franck.jpg|thumb|フランク]]
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}}</ref>。
さらに1945年シカゴ大学[[冶金研究所]]で7月12日、原爆の対日使用に関するアンケートがあった。それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書 ([[:en:Szilard petition|Szilard petition]]) を提出したが、原爆投下前に大統領に届けられることはなかった<ref>ウィアート他 (1982) pp.243–245, pp.275–277(資料107).<br>{{cite web
|url=http://www.dannen.com/decision/45-07-17.html
|title=A Petition to the President of the United States
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}}</ref>。しかし実際には、[[レスリー・グローブス]]陸軍少将らが請願書を手元に置き、大統領には届かないように妨害した。
軍人では、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを、1945年7月20日に[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領に進言しており<ref>参照:[[ハリー・S・トルーマン#大統領職]](『スチムソン回想録』)</ref>、[[アメリカ太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]]提督も、都市への投下には消極的で、[[ロタ島]]への爆撃を示唆している。
また[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]側近でも、[[:en:Ralph Austin Bard|ラルフ・バード]]のように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することに反対する者もいた。7月24日のポツダム会談でチャーチルは、1944年9月にトルーマンの前任のルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。また、大統領だったトルーマン自身も、自身の日記に「原爆の投下場所は、軍事基地を目標にする事。決して一般市民をターゲットにする事がないようにとスティムソンに言った。」と書いていたため、市民の上への原爆投下には反対していたことが明らかになっている。 しかし[[マンハッタン計画]]の責任者だったレズリー・グローブスは、原爆による最大の破壊効果を得たいが為に「広島は軍事都市である」との偽装した報告書を提出した挙げ句、勝手に原爆投下指令書を作成した
以下の記述は一旦、コメントアウトします。今後、ソースの追加などで、改善を図るべき記述である。
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