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延岡において出生。幕末の延岡藩において[[郡奉行]]や用職などを勤め、[[明治維新]]後は少参事を勤める。延岡藩は[[廃藩置県]]により延岡県となり、[[美々津県]]を経て[[宮崎県]]となる。
 
明治9年([[1876年]])[[8月21日]]に宮崎県は鹿児島県と合併・統合、翌明治10年(1877年)には鹿児島県宮崎支庁長に旧延岡藩士の藁谷英孝が就任した。一方で旧[[鹿児島城]]下では[[私学校]]党による同年[[1月29日]]の弾薬掠奪事件、[[2月3日]]には[[中原尚雄]]らからの西郷暗殺に関する「自白書」がとられたことから西郷が兵を率いて上京する方向になる。
 
明治10年(1877年)[[2月8日]]に当時延岡区長であった長民は味膳とともに宮崎支庁長の藁谷より西郷暗殺疑惑の発覚と西郷の出兵の目的、延岡からの出兵催促の書面を受け取り、さらに翌日[[2月9日]]に大和田伝蔵を使いとして藁谷より、旧[[飫肥藩]]士による飫肥隊と旧[[佐土原藩]]士による佐土原隊の出発と再度の延岡からの出兵催促が伝えられる。
 
このため、味膳と塚本長民らはかつての[[宮崎県庁舎]]である宮崎支庁舎に出向いて、宮崎支庁に届いていた鹿児島[[県令]][[大山綱良]]の書面を確認する。その後、従軍を講いに鹿児島へ行った[[池内成賢]]らが聞き入れられず鹿児島から戻るといった紆余曲折があったものの、長民を頭取、弟で[[司法省]]十六等[[大丞|出仕]]であった大島景保を小隊長とする延岡隊を結成される。延岡隊は景保に率いられて[[2月23日]]に[[熊本県]]へ出兵する一方、長民は延岡隊の頭取として延岡城下に滞在し、募兵や軍資金募集、弾薬製造で延岡隊の後方支援に従事する。
 
3月下旬に延岡士族の中で西郷軍に対し協力的であった藁谷が方針を転換し、藁谷より味膳らに鹿児島城下に兵を率いた[[勅使]]が到着したことと政府軍へ降伏すべき旨が伝えられる。明治10年(1877年)5月には延岡隊は政府軍征討先鋒本部へ降伏帰順する方向となり、政府軍への帰順を願い出るために長民らは総代として鹿児島の政府軍征討先鋒本部へ赴こうとするが、鹿児島県での戦闘により鹿児島城下の政府軍征討先鋒本部に赴くことに失敗する。