「ゼロ・モステル」の版間の差分

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[[1915年]]、[[ニューヨーク]][[ブルックリン区]]に生まれる。[[ユダヤ系アメリカ人]]の家庭だった<ref name=imdb>{{cite web|url=http://www.imdb.com/name/nm0609216/bio?ref_=nm_ov_bio_sm|title=Zero Mostel Biography|accessdate=2015-05-31}}</ref>。もともとの本名は「サミュエル・ジョエル・モステル」というものだったが、ナイトクラブで活動する際の芸名で「ゼロ」とエージェントに命名された<ref name=imdb/>。父親が農場を購入したことで、幼少期に[[コネチカット州]]へ移り住むが生活は苦しく、その後一家は再びニューヨークへ戻っている。ニューヨークへ戻った後も一家の生活は金銭的に苦しいものだったが、そんな生活の中でモステル自身はユーモアのセンスを築き上げていった。
 
学校での成績も優秀で、高校卒業後は[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]へ進学<ref name=imdb/>。[[美術]]を専攻して[[1935年]]に同カレッジを卒業した。その後はそれまで培ったコメディセンスを活かし、[[マンハッタン]]のナイトクラブなどで[[コメディアン]]としてのキャリアをスタートさせ、徐々に人気を博していった。そのうち露出の幅も広げ、[[1943年]]に『Du Barry Was a Lady』で映画デビュー。1950年代に入ると、ショービジネスでのキャリアを本格化させ、[[1967年]]に出演した[[メル・ブルックス]]監督の『[[プロデューサーズ]]』では[[ジーン・ワイルダー]]と主役を演じ、高い評価を得た。[[1969年]]に製作され[[1976年]]に出演し公開された[[コメディ映画]]『サムライ・コップ ~おとぼけクン~』では、[[フランキー堺]]、[[岸恵子]]らとも共演している。
 
また舞台における活動も高く評価されており、様々な演目へ出演した。その演技力は高い評価を受け[[1961年]]に『Rhinocéros』へ出演した際には[[トニー賞 演劇主演男優賞]]、[[1965年]]の『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』では[[トニー賞 ミュージカル主演男優賞]]をそれぞれ受賞しており、それ以外では[[オビー賞]]も受賞している。