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'''ルカ'''({{lang|el|Λουκᾶς}}, Lukas, ギリシア語発音でルカス, 福音記者ルカ)は[[新約聖書]]の『[[ルカによる福音書]]』及び『[[使徒]]』の著者とされる人物。[[聖人]]の概念を持つ全ての[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]で、聖人として崇敬されている。[[カトリック教会]]での記念日は[[10月18日]]、[[正教会]]での記憶日は[[4月22日]]([[5月3日]])である。西方世界では[[医者]]及び[[画家]]の[[守護聖人]]とされる。[[日本語]]表記では、「路加」とも書かれる。
 
== 福音記者ルカ ==
『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』はルカの手によるものとして「ルカ文書」と呼ばれるが、福音書及び使徒行伝には著者についての記述が欠けている。一方、新約聖書中には、ルカと云う名前が[[パウロ]]の書簡に協力者として現れる(『[[フィレモンへの手紙]]』24、『[[テモテへの手紙]]2』4:11、『[[コロサイの信徒への手紙]]』4:14)。教会の伝承では、早くからこの人物が福音書及び使徒の著者とされてきた。『コロサイの信徒への手紙』には「愛する医者ルカ」とあり、ここから[[福音書記者]]ルカの職業は伝統的に医者であると信じられてきた。
 
[[使徒伝]]』には、パウロの幾度かの布教旅行に「わたしたち」とする記述が有り、ルカが著者であれば、ルカはパウロの最初の[[マケドニア]]宣教及びマケドニアから[[エルサレム]]への旅行、またエルサレムから[[ローマ]]への護送に付き添っていたことになる。またこの記述からは、ルカは[[小アジア]]の[[トロアス]]と何かしら深い関係が有った様である。
 
ルカ及びルカ福音書はしばしば[[ウシ|牛]]の[[アトリビュート|シンボル]]で表される。これは『[[エゼキエル書]]』1:10に登場する四つの生き物に由来し、それぞれ四人の[[福音記者]]と[[福音書]]に比定されている。
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4世紀、一説には2世紀のものとされる文書『ルカによる福音書への反マルキオン的序文』に、ルカは[[シリア]]の[[アンティオキア]]の出身で、シリア人、職業は医者」とする記述が現れる。この文書はまた、ルカは生涯独身で、84歳で亡くなったとも伝える。幾つかの写本はルカが亡くなったのは[[ボイオーティア]]の[[テーバイ]]であると追記している。
 
後代の伝承では、彼の伝記はより明確化された。[[エピファニオス]]は[[七十門徒]]の一人に彼の名を挙げている。[[ヨハネス・クリュソストモス]]は、『[[コリント人へ第2信徒への手紙]]』8:18に言う「私の兄弟」とは、[[バルナバ]]とルカのどちらかを指すと考えていた。
 
また、ルカには画才があり、初めて[[聖母マリア]]を描いたとの伝承も有った為、中世の絵画作品等には、聖母子像を描くルカの姿が好んで描かれている。この為、中世ヨーロッパの[[画家]]・[[薬剤師]]の[[ギルド]]は多くルカを守護聖人としている。また、[[ネーデルラント]]等の諸都市にある画家ギルドは、共通して「[[聖ルカ組合]]」を名乗ることが多かった。
 
== ルカ文書の筆者問題 ==
『ルカによる福音書』及び『使徒』はルカの手によるものとして「ルカ文書」と呼ばれる。だがその真偽については以前から論争が有り、未だ決着を見ていない。保守的な学者はルカ著者説を支持している。その論点としては、これらの文書の著者がルカであるとすることで古代の記者達は一致しており、新約聖書では余り目立たないこの人物が著者であるとすることで、格別の権威付けが為されるとは考えられないとする。一方これらの見解を否定する学者は、ルカ文書の真の著者は不明であると考えている。
 
==脚注==