「フェルッチョ・ブゾーニ」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
イタリアの[[エンポリ|エンポーリ]]生まれ<ref>吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』[[青弓社]]、2006年2月10日、247ページ。{{ISBN2|4-7872-7208-X}}</ref>。少年時代をほとんど[[トリエステ]]に過ごす。母親アンナ・ヴァイス=ブゾーニはトリエステ出身のプロのピアニストで、祖父ジュゼッペ・ヴァイスを通じてユダヤ人の血を引いている<ref>Della Couling: ''Ferruccio Busoni: "a musical Ishmael"'', p.352, Scarecrow Pr, 2004.</ref>。
 
=== 少年期の音楽活動 ===
イタリア人の父親フェルディナンド・ブゾーニはプロの[[クラリネット]]奏者をつとめるかたわら、画業もこなし、ブゾーニの少年時代に両親はしばしば演奏旅行を行なった。ブゾーニは神童で、7歳で両親の公開演奏会においてデビューした。数年後には[[ウィーン]]で自作のいくつかを演奏し、[[フランツ・リスト]]のピアノ演奏にも接した。ウィーンでは、リストや[[ヨハネス・ブラームス]]、[[アントン・ルビンシテイン]]にも面会している。リストは、ブゾーニの演奏の真価について消極的な返事を出したらしいが<ref>全音版パガニーニ練習曲のブゾーニの略歴</ref>、一方のブゾーニは、「リストのピアノ曲は、ピアノ芸術の[[Α|アルファ]]にして[[Ω|オメガ]]である」と最大限の賛辞<ref>Busoni and the Piano: The Works, the Writings, and the Recordings - Contributions to the Study of Music and Dance... by Larry Sitsky</ref>を捧げており、リストのピアノ曲の校訂・編曲も手懸けている。
 
13歳で《24の前奏曲》Op.37を完成、そのほか大量にピアノ作品を作曲したが「少年期の作品はあまり意味がない」とブゾーニはこの時期の作品の完成度に否定的であった。その後、彼の周囲に作曲とピアノで並ぶものはいなくなり、{{仮リンク|アントン・ルビンシテイン国際音楽コンクール|en|Anton_Rubinstein_Competition}}の作曲部門とピアノ部門の両部門に挑戦<ref>{{Cite web |url = https://www.bbc.co.uk/programmes/topics/Anton_Rubinstein_Competition_prize-winners|title = Conductor and composer Ferruccio Busoni|website = www.bbc.co.uk|publisher = BBC|date = |accessdate = 2020-02-11}}</ref>し、作曲部門は優勝(《ピアノと管弦楽のための[[コンツェルトシュテュック]]》Op.31a)、ピアノ部門は第二位という結果を得て若手のホープに躍り出た。
 
=== ドイツ人としての活動 ===
ブゾーニは短期間[[グラーツ]]で学んだ後、[[1886年]]に[[ライプツィヒ]]に赴き、その後いくつかの教職に就く。まず[[1888年]]に[[ヘルシンキ]]で教鞭を執り、同地で後の夫人イェルダ・ショーストランド (Gerda Sjöstrand) に出会っている。[[1890年]]には[[モスクワ]]、翌年から[[1894年]]まで[[アメリカ合衆国]]でも教鞭を執った。アメリカでは[[ヴィルトゥオーゾ]]のピアニストとして演奏旅行もこなしており、有名な[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の《シャコンヌ》の編曲も、この頃に手懸けたようである。
 
[[1894年]]に[[ベルリン]]に居を構え、同地でピアニストや指揮者として一連の演奏会を行い、とりわけ同時代の音楽の普及につとめた。[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン国立音楽院]]や[[ヴァイマル]]、[[バーゼル]]では、数々の{{仮リンク|マスタークラス|en|Master class}}で教鞭を執り、[[クラウディオ・アラウ]]や[[エゴン・ペトリ]]らの門弟を育てた。
 
[[ピアノ協奏曲 (ブゾーニ)|ピアノ協奏曲》Op.39]]は完成できなかった[[オペラ]]「アラジン」(Aladdin)から派生した作品であったが、この協奏曲完成後はロマン主義からの脱却と[[新古典主義]]への偏愛を見せるようになる。このころから「ピアノ演奏法」の著作に取り掛かる。
 
=== 新音楽への道 ===
[[第一次世界大戦]]中は、まず[[ボローニャ]]に避難して音楽院を監督し、それから[[チューリッヒ]]に移った。交戦中の国々で演奏することをその間、拒否し続けた。チューリッヒ時代の弟子に、後に米国における[[電子音楽]]の先駆者の一人となる[[オットー・ルーニング]]がいる。[[1920年]]にベルリンに帰り、作曲の[[{{仮リンク|マスタークラス]]|en|Master class}}を主催した。有名になった作曲家の弟子に[[クルト・ヴァイル]]や[[エドガー・ヴァレーズ]]、[[シュテファン・ヴォルペ]]らがいる。
 
1914年にオペラ「[[ファウスト博士]]」に着手したが、未完に終わった。
 
=== 死去 ===
ブゾーニは[[腎臓病]]のために亡くなり、ベルリンで埋葬された。
ブゾーニは[[腎臓病]]のために亡くなり、ベルリンで埋葬された。ブゾーニは、ピアノ演奏のレコードや[[ピアノロール]]を遺した。ブゾーニの作品は、作者の死後、長年にわたって多くが無視されてきたが、ピアノの偉大なヴィルトゥオーゾとして、またバッハ作品の編曲者として、また来るべき[[現代音楽]]の擁護者として記憶されてはいた。[[1980年代]]を境に、ブゾーニ作品への興味が蘇るようになった。ベルリン市{{仮リンク|シェーネベルク|en|Schöneberg}}のブゾーニの住居では、記念の[[レリーフ]]によって彼の功績が称えられている。
 
=== 死後 ===
[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]社から盛んに作品の出版が行われていたにもかかわらず、没後は多くの作品が品切れになり、瞬く間に忘れられた。特に少年期には契約した出版社が多く、作品全曲の収集はきわめて難しかったが、{{仮リンク|ラリー・シツキー|en|Larry Sitsky}}が可能な限りのピアノ作品全曲の収集に成功、著書も出版<ref>Larry Sitsky. Busoni and the Piano: The Works, the Writings, and the Recordings. New York, Westport, Conn., and London: Greenwood Press, 1986, 409 pp. Second edition published by Pendragon Press as no. 3 of its Distinguished Reprints series (2009), 414 pp.</ref>された。
 
ブゾーニのピアノ作品が評価されるようになったのは、[[グンナー・ヨハンセン]]がアメリカでLPを連続して発売したころからであるが、その時点でもブゾーニ演奏はメジャーにならなかった。その状況が破られたのは[[ジョフリー・ダグラス・マッジ]]がCD6枚組でフィリップスより少年期の作品から壮年期までを収録した音源をリリースしたころからである。[[ポール・ジェイコブス]]、{{仮リンク|アーシュラ・オッペンス|en|Ursula Oppens}}、[[マルカンドレ・アムラン]]、{{仮リンク|ヴォルフ・ハーデン|en|Wolf_Harden}}、[[ギャリック・オールソン]]ほかのピアニストがその流れに乗ったが、ピアノ作品全集を個人で達成した人物はまだ誰もいない。ただし、ヴォルフ・ハーデンが初期の作品からの全集をNAXOSから慎重に進めている。
 
== 作品 ==
=== 概論 ===
ブゾーニの楽曲は、概して[[対位法]]的に入り組んでおり、いくつかの[[旋律]]線がいっせいに綾をなす。シェーンベルク的な意味の完全な[[無調性]]で作曲したというわけではないものの、後年の作品はしばしば[[調性]]を決定することができない。[[1912年]]の「ソナチネ第2番」のプログラムにおいてブゾーニは、この作品を「調性のない''senza tonalità''」作品と呼んだ。主な影響は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]と[[フランツ・リスト]]の二人であるが、いくつかの作品では[[新古典派|新古典主義]]の傾向も認められ、旋律を[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]に似せた作例も見受けられる。作品の多くはピアノ曲である。
 
ブゾーニの成熟された作曲姿勢は、[[1907年]]の声明書『新音楽概論』<ref group="注">邦訳は『新音楽美学論』として、1929年に共益商社書店から出版された。</ref> から把握することができる。この著書は、出版当時はいくぶん議論の的となった。この中でブゾーニは、当時ほとんど探求されず、ブゾーニ自身も採用したことのない、[[電子音楽]]や[[微分音]]について論じたからである。さらにブゾーニは、何か新しいことを行うには、過去の音楽の本質を抽出しなければならないとも主張した。
 
ブゾーニ作品の多くは過去の音楽、とりわけバッハの作品を基礎としている。ブゾーニはいくつかのバッハ作品をピアノ用に編曲しており、中でも[[オルガン]]曲の《[[トッカータとフーガニ短調]]》や、《[[無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ#パルティータ第2番ニ短調 BWV1004|無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調]]》からの〈シャコンヌ〉を編曲したものは有名である。それゆえブゾーニのことを新古典主義音楽の創始者と見なす向きもある。
 
ブゾーニの最も有名でかつ最も長いピアノ曲《対位法的幻想曲(''Fantasia Contrappuntistica'')》の初版は、1910年に出版された。およそ30分にわたる長さで、バッハの《[[フーガの技法]]》の未刊のフーガに基づく作品である。また、バッハ作品にしばしば用いられる旋律的な音型([[バッハ動機]])すなわち変ロ、イ、ハ、ロの音列も使われている。ブゾーニはこの作品をたびたび改訂し、2台ピアノのための編曲も行なった。オルガン版や、管弦楽版も作成された。
 
ブゾーニはバッハだけでなく、その他の作曲家の作品の素材も利用した。たとえば《若者に向けて(''An die Jugend'')》(1909年)の第4曲は、[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]の無伴奏[[ヴァイオリン]]のための《[[24の奇想曲|奇想曲]]》(第11曲と第15曲)を用いており、一方で1920年の《ソナチネ第6番》は、「カルメンに基づく室内的幻想曲(''Fantasia da camera super Carmen'')」と題され、ビゼーのオペラ《[[カルメン (オペラ)|カルメン]]》の旋律が使われている。
 
ブゾーニは超絶技巧のピアニストであり、彼の作品を演奏するのは至難の業である。《[[ピアノ協奏曲 (ブゾーニ)|ピアノ協奏曲]]》(1904年)は、このジャンルでこれほどの長さを持つものは前例がなかった。優に1時間を超す長さで、独奏者に体力と根気と余裕が要求される。フィナーレは、大オーケストラと男声合唱のために作曲されている。
 
ブゾーニの[[管弦楽組曲]]《トゥーランドット(''Turandot'')》(1904年)は、おそらく彼の管弦楽曲では最も有名な作品で、ここから[[オペラ]]《トゥーランドット》(1917年)に発展した(ただし知名度と世界的成功において、[[プッチーニ]]の[[トゥーランドット|同名のオペラ]]とは比べようがない)。ブゾーニが他に完成させたオペラは2つで、《花嫁選び(''Die Brautwahl'')》(1911年;[[E.T.A.ホフマン]]原作)と《アルレッキーノArlecchino》(1917年)である。ブゾーニの最も有名なオペラ《ファウスト博士(''Doktor Faust'')》は1916年に着手されたが未完成に終わり、作曲者の死後、門人{{仮リンク|フィリップ・ヤルナッハ|de|ilipp_Jarnach}}によって完成された。その後、ヤルナッハの解釈がブゾーニの意図に忠実ではないとの見方から、{{仮リンク|アントニー・ボーモント|en|Antony_Beaumont}}によって新版が作成された。
 
=== ブゾーニ校訂版 ===
ブゾーニは、他人の作品を校訂してもいる。最も有名な例は、門人[[エゴン・ペトリ]]や{{仮リンク|ブルーノ・ムジェリーニ|it|Bruno_Mugellini}}の輔佐を受けたバッハの鍵盤楽曲選集である。ブゾーニは[[演奏記号#速度記号|速度記号]]や[[アーティキュレーション]]、フレーズ記号、[[デュナーミク]]、メトロノーム記号をバッハの原曲に付け加え、詳細な演奏の指示を注釈した。たとえば[[ゴルトベルク変奏曲]]においては、演奏会向きにするためとして、変奏曲のうち8曲を削除するよう提案し、多くの部分を書き換えている。
 
ブゾーニ校訂版は、バッハが本来[[チェンバロ]]のために創った楽曲を、モダンな[[ピアノ|グランドピアノ]]を用いてロマンティックに解釈し直したものであり、ブゾーニ版の後継的な校訂譜にも同じことが指摘できる(但し、[[日本]]の[[井口基成]]版のように、ブゾーニ版の演奏効果を認めながらも、ある程度まで、いわゆる原典版の解釈も加味しようとした校訂譜も存在する)。ブゾーニ校訂版は、現在のバッハ愛好家の中ではたいてい顰蹙を買ってはいるものの、最近ではCDやオンライン上の楽譜ファイルとして入手することが可能になったこともあり、再評価する向きも見られる。
 
規模はもっと小さくなるが、ブゾーニは[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[フランツ・リスト|リスト]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]の作品を校訂ないしは改訂した。ブゾーニ版の《[[ラ・カンパネッラ]]》(リスト作曲)は、[[イグナツ・フリードマン]]、[[ヨゼフ・レヴィーン]]、[[ジョン・オグドン]]のようなピアニストによって擁護されたが、あまりにも凝った編曲のためか、レパートリーに採用するピアニストは決して多くはない。一方、ベートーヴェンの[[エコセーズ]]として親しまれている作品(WoO.86。《6つのエコセーズ》WoO.83とは別の単独の楽曲である)は、ベートーヴェンの遺作の小品にブゾーニが手を加えたものにほかならない。
 
== 演奏 ==
=== 名人芸 ===
当時は演奏に編集の手を加えることが不可能だったので、ブゾーニも[[ヨゼフ・レヴィーン]]と同じく録音を嫌がった。それでも数点の音源が遺されており、驚異的な演奏技巧を伝えている。中でも《[[超絶技巧練習曲]]》第5番「鬼火」や、《[[ハンガリー狂詩曲]]》第13番は、自らの編曲したものを[[蝋管]]に録音しており、いずれも劣悪な音質にもかかわらず、ブゾーニの遺した最も秀逸な音源の一つに数えて差し支えない。
 
=== ブゾーニ国際ピアノコンクール ===
「[[ブゾーニ国際ピアノコンクール]]」が[[1949年]]よりイタリアの[[ボルツァーノ]]で行われている。彼はトリエステ<ref group="注">この都市ではかつて国際作曲コンクールが行われていた。現在は室内楽のコンクールが継続されている。</ref>で幼少時代を過ごしておりこの都市とは縁がないが、第一次世界大戦前には[[オーストリア]]に属し現在でも多くのドイツ語人口を抱える南[[チロル]]の都市にとって、彼はドイツとイタリアの文化の融和を象徴するのに最適な存在とみなされた。
 
老舗国際コンクールのひとつである。当初は毎年行われていたが、当初は少なかった国際コンクールの数が増えすぎたために、現在では2年ごとの開催に移行している。通常の隔年開催とは異なり、1年目は予備選のみを行って参加者を絞り、2年目は本選を行うというシステムをとっている。
 
第一位を輩出する基準が大変厳しく、「一位なし二位」が相当の実力者に与えられることもあった難関コンクールである。近年はブゾーニの遺志を汲み現代音楽の演奏を必修にしている。必ずしも「上位入賞者」だけが軌道に乗るとは限らず、特別賞に留まったピアニストにも[[白建宇|クン・ウー・パイク]]のような巨匠がいる。2010年代から大きく制度が変更されており、ファイナルに進めるのは3人までである。
 
==参考文献==
*Larry Sitsky. Busoni and the Piano: The Works, the Writings, and the Recordings. New York, Westport, Conn., and London: Greenwood Press, 1986, 409 pp. Second edition published by Pendragon Press as no. 3 of its Distinguished Reprints series (2009), 414 pp.
 
==関連文献==
===西欧諸語で書かれたもの===
*Antony Beaumont. Busoni the Composer. Bloomington: Indiana University Press, 1985.
*Ates Orga, Volume 72 of Philips' Great Pianists of the Twentieth Century series (set I on John Ogdon)
*Tawaststjerna, Erik (1976). Sibelius: Volume 1, 1865-1905. University of California Press. pp. 44–47. ISBN 9780520030145.
 
== 脚注 ==
===日本語で書かれたもの===
{{脚注ヘルプ}}
*ブゾーニ校訂版バッハ二声のインヴェンション・三声のシンフォニア日本語訳
; 注釈
{{Reflist|group="注"}}
; 出典
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|id=Busoni%2C_Ferruccio|cname=フェルッチョ・ブゾーニ}}
{{DEFAULTSORT:ふそに ふえるつちお}}
 
==脚注==
<references/>
 
{{Classic-stub}}
{{Music-bio-stub}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:ふそに ふえるつちお}}
[[Category:近現代の作曲家]]
[[Category:イタリアの作曲家]]
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