「グローバル・レスリング連盟」の版間の差分

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== 経緯 ==
[[1970年代]]、かつては[[日本プロレス|日本プロレス協会]]が存在していたが、[[1970年代]]前半に[[全日本プロレス]]と[[日本プロレス]]に分裂して以降、[[ジャイアント馬場]]、[[アントニオ猪木]]の意向の違いなどから、両プロレス団体の交流は殆ど行われてこなかった(第3のプロレス団体である[[国際プロレス]]は両プロレス団体と交流していたが[[1981年]]に崩壊している)。
 
[[2000年代]]プロレス界は低迷するプロレス人気に反比例してプロレス団体が乱立したためており、興行が同一エリア、同一日時でバッティングすることも多かったため。それゆえ、プロレス界全体を取りまとめる協会的な組織の必要性が長らく叫ばれていた。
 
このことから[[2006年]]8月、[[ZERO1|プロレスリングZERO1-MAX]](現:プロレスリングZERO1)を運営していた[[ファースト・オン・ステージ]]の代表取締役社長の[[中村祥之]]社長が、友好関係にある[[プロレスリング・ノア]]の[[仲田龍]]取締役渉外部長の[[仲田龍]]に相談。対して仲田は「海外戦略などは独自に行おうと思っていたが、プランとして重複する部分があるので、一緒にやろうと思った」とコメントして統一機構設立への機運が一気に高まった。プランを考案した中村は「不要な争いを排除して協力できる部分は協力していきたい。それがプロレスの発展になる。3月から各プロレス団体と交渉してきた」と述べている。[[9月12日]]、グローバル・レスリング連盟(以下「GPWA」)を発足。会長にノアの代表取締役社長の[[三沢光晴]]、事務局長に中村が就任。理事は各加盟団体の所属選手の持ち回りとなり、活動資金は加盟団体から出資するわけではなく、GPWAが興行を開催して利益をプールする形となった。正式な本部の場所が決まるまでの間はファースト・オン・ステージの事務所に本部を置いていた。GPWAは設立意義からも将来的にはプロレス界のコミッションとして活動することが目標となっており、プロレス界念願であった統一機構をGPWAが担うことになるのではという意見も多かった
 
こうして[[9月12日]]、グローバル・レスリング連盟(以下「GPWA」)は正式に発足。会長には[[三沢光晴]]ノア社長が就き、事務局長は中村が務めることとなった。また理事は各加盟団体の所属選手の持ち回りとなり、活動資金は加盟団体から出資するわけではなく、GPWA独自で興行などを開き、その利益をプールする形となった。同時に正式な本部の場所が決まるまでの間、ファースト・オン・ステージ事務所を本部とすることも発表された。
かつて[[日本プロスポーツ協会]]([[日本相撲協会|大相撲]]、[[日本プロボクシング協会|プロボクシング]]、[[日本野球機構|プロ野球]]、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]など日本を代表するプロスポーツ連盟、協会が加盟している)に加盟していたプロレス界であったが、2000年代に新日本プロレスと全日本プロレスが脱退してからは加盟団体が無く、プロレス界は孤立してしまっていた。このことを憂い、プロレス界を総括する連盟の必要性を訴えてきた[[馳浩]]はGPWAの設立を歓迎しており、三沢、中村、仲田と話し合って陰ながら支援していくことを表明していた。
 
GPWAは、その設立意義からも、将来的にはプロレス界のコミッションとして活動することが目標となっており、プロレス界念願であった統一機構をGPWAが担うことになるのでは、という意見も多かった。
[[2006年]][[11月14日]]、[[後楽園ホール]]で「[[GPWA第1回興行]]」を開催。中継権を得た[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[日テレジータス|日テレG+]]で生中継された。地上波でも深夜に放送された。興行は主に各プロレス団体の提供試合をはじめ、各プロレス団体が推している若手選手を中心にしたカードが2組から3組まれており、次世代選手をプッシュすることが大きな要素となっていた。
 
かつて[[日本プロスポーツ協会]]([[日本相撲協会|大相撲]]、[[日本プロボクシング協会|プロボクシング]]、[[日本野球機構|プロ野球]]、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]など日本を代表するプロスポーツ連盟、協会が加盟している)に加盟していたプロレス界であったが、[[2000年代]]に新日本プロレスと全日本プロレスの両団体が脱退してからは加盟団体が無く、プロレス界は孤立してしまっていた。このことを憂い、プロレス界を総括する連盟の必要性を訴えてきた元プロレスラーで[[衆議院議員]]の[[馳浩]]はGPWAの設立を歓迎しており、会長の三沢、中村、仲田、中村の両首脳らと話し合ってい、陰ながら支援していくことを表明していた。
[[2007年]][[5月5日]]と6日、[[ディファ有明]]で「[[ディファフェスタ]]」を開催。同興行以降は連盟としての活動は一切発表していない。各プロレス団体、選手がGPWAの加盟、非加盟に囚われない交流を進めている事から、その機能は形骸化していた。
 
[[2006年GPWA第1回興行]][[が、2006年11月14日]]、[[後楽園ホール]]で「[[GPWA第1回興に於いて]]」を開催われた。中継権を得た[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]がCSチャンネル[[日テレジータス|日テレG+]]にて生中継された。地上波でも通常の[[プロレスリング・ノア中継]]とは枠を変更して深夜放送された。興行大会は主に各プロレス団体の提供試合をはじめ、各プロレス団体が推している若手選手を中心にしたカードが2組から3組まれており、次世代選手レスラーをプッシュすることが大きな要素となっていた。
[[2009年]][[6月13日]]、三沢が試合中による事故で死去。GPWAは会長人事について一切発表していない。中村は各プロレス団体が連盟の活動に手が回らなくなった事などが原因と語っている<ref>「[[kamipro]] No.137」[[エンターブレイン]] 2009年7月23日発行</ref>。
 
[[2007年]][[5月5日]]から2日間、[[ディファ有明]]に於いて「[[ディファフェスタ]]」を開催して、その中で第3回「[[ディファカップ]]」が敢行された。
 
以降は連盟としての活動は一切、発表されていない。各プロレス団体、選手がGPWAの加盟、非加盟に囚われない交流を進めている事からその機能は形骸化している。さらに[[2009年]]3月、新日本、全日本、ノアの3団体が共通ライセンス構想について会談を行い合意し、三沢光晴の試合中の事故死を契機としてGPWAとは別に統一機構の設立を目指しており、その存在は有名無実化している。なお、三沢の死後もGPWAの会長人事については一切発表されていない。
 
加盟団体の1つだった[[2009年KAIENTAI DOJO]][[6月13日TAKAみちのく]]、三沢が試合中による事故のブログ死去。GPWA会長、「現在休止中」と本事について一切していない連盟の活動を主導していた中村は、ZERO1の経営悪化に伴う再建活動が多忙化するなど、プロレス団体が連盟の活動に手が回らなくなった事などが原因と語っている<ref>「[[kamipro]] No.137 [[エンターブレイン]] 2009年7月23日発行</ref>。
 
== 事業内容 ==