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1946年に富士通信機製造株式会社(1967年に[[富士通]]と改名)に入社した。池田敏雄が入社してすぐの1947年の秋、富士通では電話機のダイヤルの作動にトラブルが起きる問題が発生した<ref name="ikeda_hisyo">{{PDFlink|[http://www.fujitsu.com/jp/documents/about/plus/museum/ikeda/biography/hisyo.pdf 富士通 池田記念室 池田敏雄ものがたり]}}</ref>(プロジェクトXの「国産コンピューター ゼロからの大逆転」<ref>プロジェクトX 第83回「国産コンピューター ゼロからの大逆転」(日本放送協会)</ref>では(通話に)「雑音が入る」というような感じで表現されているが、ダイヤルの問題ということから考えて、ダイヤルのパルスにノイズが乗り、ダイヤルミスが起きるというトラブルと思われる)。一時は進駐軍が工場の作業停止を命じてくるなどの事態となったが、社を挙げての努力により製造再開<ref>『池田記念論文集 <small>FACOM開発を中心として</small>』({{全国書誌番号|78026611}})p. 224</ref>、さらに材料や設計を見直して新しい[[黒電話#4号電話機|4号電話機]]の量産化に成功した<ref name="ikeda_hisyo" />。この問題について、池田は約1年をかけて<ref group="注釈">プロジェクトXで、即座に分析を示したかのように描かれているのは演出。</ref>、[[ニュートン力学|力学]]の基本である[[ニュートンの運動方程式|運動方程式]]を立てるところから始まる徹底した解析を行い、結果を論文にまとめた。<ref name=tahara92>田原 92-94頁には、川谷幸麿の「ダイヤルのミスは理論的に起きるのだ、ということを証明しようとしたもの」という証言があるが、外部にも公開されている論文集に収録されている内容([[#参考文献]]の節を参照)に限ると(トラブルの具体的な内容は社内秘であるのか)、運動の解析についてしか述べられていない。</ref>
 
[[ドッジ・ライン]]の影響により[[逓信省]]<ref group="注釈">1949年に[[郵政省]]と[[電気通信省]]に分離</ref>からの受注が大きく減少したため、会社は人員整理を行った<ref group="注釈">従業員を4100人から2600人へ削減した</ref><ref>田原94-95頁</ref>。一方で政府からの発注に依存しない経営を説いた取締役の[[高羅芳光]](後の1970年 - 1974年に社長<ref name="fujitsu_history">{{PDFlink|[http://pr.fujitsu.com/jp/ir/library/databook/2010pdf/1-10.pdf 富士通 歴代社長とシンボルマークの変遷]}}</ref>)と[[尾見半左右]](後に[[富士通研究所]]初代社長)、課長の[[小林大祐]](後の1976年 - 1981年に社長<ref name="fujitsu_history" />)が新市場であるエレクトロニクスへの事業展開を役員会で認めさせた<ref group="注釈">当時の会社の売上の80%が日本政府からの発注だった。田原 104頁</ref><ref name=tahara94>田原 94-105頁</ref>。池田は小林の下で[[山本卓眞]](後の1981年 - 1990年に社長<ref name="fujitsu_history" />)、[[山口詔規]]と共に[[東京証券取引所|東証]]向けの株式取引高精算用計算機<ref group="注釈">プロジェクトXで、UNIVACなどの電子計算機に影響されたかのように描かれているのは演出。</ref>の開発を行い約9ヶ月で試作を完成させた<ref>遠藤 156-161頁</ref><ref name=tahara121>田原 121-123頁</ref>。東証は[[UNIVAC]]の計算機を採用したが、この試作機は続いて開発された[[FACOM|FACOM100]]に繋がった<ref>田原 141-143頁</ref>。
 
=== FACOM 開発 ===