「ロジャー・コーツ」の版間の差分

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[[アイザック・ニュートン]]と密接に協力して研究した。『[[自然哲学の数学的諸原理|プリンキピア]]』の第2版を校正し、[[ニュートン・コーツの公式]]などを導いた。[[ケンブリッジ大学]]の初代のプルミアン教授職を1707年から没するまで務めた。
 
[[レスターシャー州]]のバービッジに生まれた。[[天文学]]を研究し、1707年に26歳でケンブリッジ大学の[[天文学]]・[[実験物理学]]のプルミアン教授職に任じられると、[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に[[天文台]]を建設しようとした。しかし完成は彼の没後となり、さらに1797年に天文台は取り壊された。ニュートンと協力して、時計仕掛けで鏡が回転する[[ヘリオスタット]]式の[[望遠鏡]]を設計した。[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]と[[ジョン・フラムスティード]]による[[太陽]]と[[惑星]]の運動表を再計算し、[[運動の第2法則|ニュートンの法則]]に基づいて[[月]]の運動の表の作成を試みた。1709年から1713年に『プリンキピア』第2版の校正をニュートンと3年半かけて行った。コーツの主な業績は[[数学]]、特に[[積分法]]や[[対数]]、[[数値解析]]の分野にあり、[[区分求積法]]に関するニュートン・コーツの公式に名前が残されている。1716年に33歳で病没した。
 
ニュートンはその死を惜しんで、''If he had lived we would have known something.''(彼が生きていれば、人類に重大な発見をもたらしていただろう{{sfn|リヴィオ|2017}})と述べた。