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[[建初 (漢)|建初]]2年([[77年]])、妹とともに宮中に参内した。章帝と[[明徳馬皇后 |馬太后]]から好印象を持たれた。そのため章帝の後宮に入った。翌年に皇后に立てられた。妹も貴人となった。
 
初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の[[劉慶 (清河王)|劉慶]]を産んだ。梁貴人は[[劉肇]]を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言し、宋貴人は自殺した。その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。
 
[[章和 (漢)|章和]]2年([[88年]])に章帝が死去し、劉肇は即位した。皇太后として臨朝し、兄である竇憲らと政権を握った。一族は権勢を誇った。和帝は成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。
 
[[永元 (漢)|永元]]4年([[92年]])、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。