「藤原豊成」の版間の差分

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天平勝宝8年([[756年]])左大臣・橘諸兄が讒言を理由に[[致仕]]したことから、豊成は太政官の首班に立つが、仲麻呂も大臣格の紫微内相に就任する。天平勝宝9年([[757年]])3月に[[道祖王]]が[[皇太子]]を廃され、4月に皇嗣選定の協議が行われると、豊成は中納言・[[藤原永手]]とともに[[藤原氏]]の血を引く[[塩焼王]]を推すが、結局仲麻呂の私邸([[田村第]])に居住していた大炊王(後の[[淳仁天皇]])が立太子される<ref>『続日本紀』天平宝字元年4月4日条</ref>。豊成が塩焼王を推したことについて、塩焼王と仲麻呂の関係が悪くなかったことを考慮したなど優れた政治的バランス感覚とする評価がある一方で<ref name="st">栄原[2015]</ref>、かつて塩焼王は聖武天皇によって[[流刑]]に処されたことがあり、選定時にその理由で不適格となっていることから、バランス感覚を否定的に捉える意見もある<ref name="ky5" />。
 
同年5月に[[正二位]]に昇進するものの、同年7月の[[橘奈良麻呂の乱]]において、[[答本忠節]]から[[謀反]]の企てに関する報告を受けながら孝謙天皇への[[奏上]]を行わず<ref>『続日本紀』天平宝字元年7月4日条</ref>、謀反の露見後は[[小野東人]]の勘問にあたるも自白させられずに担当を外されるなど<ref>結局、豊成に替わって担当した藤原永手の手によって小野東人は自白に及んだ。</ref>事件の究明に努めなかったことを理由に、右大臣を罷免され[[大宰権帥|大宰員外帥]]に落とされた<ref>『続日本紀』天平宝字元年7月12日条</ref>。また、小野東人は反乱計画では[[駅鈴]]と[[御璽]]を奪取後に豊成を召し出して指揮を執らせ孝謙天皇の[[廃位]]を行う予定であったことを白状しており、豊成が謀叛側の[[官人]]から好意的に思われていたことによる影響も指摘されている<ref>木本[2017: 6]</ref>。いずれにしても、太政官の首班を占める豊成に対抗意識を燃やしていた仲麻呂が<ref name="st" />、折あらば豊成を陥れ入れようと絶えずその機会を窺っていた中で<ref>岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館、1969年、216頁</ref>、仲麻呂[[暗殺]]を含む謀叛計画を知りながら最高責任者の右大臣として上奏を行わず何ら対策を取らなかったという政治的なミスを犯したことが左降という結果に繋がったと評価されている<ref>木本[2017: 7]</ref>。なお、普段より[[橘奈良麻呂]]と好を通じていた豊成の三男・[[藤原乙縄]]も乱に与したとされ、[[日向国#国司|日向掾]]に[[左遷]]された<ref name="kd" />。
 
だが、豊成は抗議の意を込めて「病気」と称して[[難波]]にあった自分の[[別荘]]に籠ったことから、[[大宰府]]行きは無期限延期状態となり、そこで8年間の隠遁生活を送った<ref name="kd" />。[[天平宝字]]8年([[764年]])仲麻呂が[[道鏡]]排斥に失敗して敗死すると([[藤原仲麻呂の乱]])、橘奈良麻呂の乱における豊成の罪状は、仲麻呂による偽りの中傷とみなされ<ref>『続日本紀』天平宝字8年9月29日</ref>、豊成は罪を赦されて[[従一位]]・[[右大臣]]として政権に復帰した。同時に三男の乙縄も復権。翌[[天平神護]]元年([[766年]]1月)11月27日[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]62。最終[[官位]]は右大臣従一位。