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書誌情報
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==教育==
野呂景義は[[名古屋]]・橦木町に生まれた。愛知英語学校を経て、[[開成学校]]で学んだ後、1882年[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理学部]]採鉱冶金学科を卒業した。大学卒業後は母校の助教授となり、ドイツ人の採鉱冶金教授の[[クルト・ネットー]]の下で学生を指導する傍ら、冶金学の研究を続けた<ref>[https://{{kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%91%82%E6%99%AF%E7%BE%A9-112600 |2=日本大百科全書(ニッポニカ)|野呂景義] (コトバンク)}}</ref>。1891年、日本初の[[博士#日本での歴史|工学博士号]]を[[文部省]]より授与されている。
 
1885年から1889年にかけてヨーロッパへ留学し、初めイギリスの[[ロンドン大学]]で[[機械工学]]や[[電気工学]]を学び、次にドイツの[[フライベルク鉱山大学]][[:en:Freiberg{{lang-de-short|Bergakademie University of Mining and Technology|Freiberg University]]}}、ネットーの母校)で鉄の冶金学を学んだ。帰国後の1889年に東京帝国大学工科大学の教授に就任して、日本の初期の鉄鋼業界で活躍することになる[[今泉嘉一郎]]などの技術者を育てた。
 
==鉄鋼業界指導==
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1915年、[[日本鉄鋼協会]]を設立して、初代会長に選ばれている。同協会は功労者を毎10年毎に表彰してきたが、創立60周年時(1975年)に「野呂賞」と名付け毎年表彰することを決定している。<ref>[https://www.isij.or.jp/commendation/?action=common_download_main&upload_id=5463 野呂 景義 小伝(日本鉄鋼協会)]</ref>
 
==参照==
* [[経済産業省]]広報DVD『はじめての[[近代化産業遺産]]』(2008年) - [[白仁裕介]]が工学博士・野呂景義の役を演じている
 
==脚注==
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==参照==
* [[経済産業省]]広報DVD『はじめての[[近代化産業遺産]]』(2008年) - [[白仁裕介]]が工学博士・野呂景義の役を演じている
 
==関連項目==
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==外部リンク==
* [[飯田賢一]]、「[https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.73.7_751 日本鉄鋼技術の恩人たち-初代会長野呂景義博士につらなる人びと]」 『鉄と鋼』 1987年 73巻 7号 p.751-760、のうち、「4・3 日本鉄鋼技術の巨匠-野呂景義」
* {{kotobank|2=20世紀日本人名事典|野呂 景義}}
* [https://jpsearch.go.jp/csearch/jps-cross?csid=jps-cross&from=0&size=100&keyword=%E9%87%8E%E5%91%82%E6%99%AF%E7%BE%A9 「野呂景義」]横断検索 - ジャパンサーチ(BETA)
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のろ かけよし}}
[[Category:日本の冶金学者]]