「結城成朝」の版間の差分

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| 画像 = Yuki Shigetomo.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 結城成朝(森戸果香筆)
| 時代 = [[室町時代]]中期
| 生誕 = [[永享]]11年([[1439年]])
| 死没 = [[寛正]]3年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]([[1463年]][[1月18日]])
| 改名 = 重朝(初名)→)、成朝
| 別名 =
| 諡号 =
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| 藩 =
| 氏族 = [[結城氏]]
| 父母 = 父:[[結城氏朝]]
| 兄弟 = [[結城持朝|持朝]]、[[結城朝兼|朝兼]]、[[結城長朝|長朝]]、'''成朝'''
| 妻 =
| 子 = [[海老原輝朝]]
| 子 = 継承者:'''''[[結城氏広|氏広]]'''''(結城長朝子)
| 特記事項 =
}}
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[[嘉吉]]元年([[1441年]])、[[結城合戦]]で父や長兄・[[結城持朝|持朝]]ら一族の多くが戦死した際、幼児であった成朝は乳母の手によって[[室町幕府]]の追跡から逃れて[[常陸国]]の[[佐竹氏]]の許へ落ち延びた。その後、[[足利成氏]]が5代[[鎌倉公方]]となって[[鎌倉府]]が復活すると、成氏の計らいによって結城氏の再興も許されることとなる。この際、兄・[[結城長朝|長朝]]も家督継承に名乗りを上げたが、重朝はこれを打ち破って家督を継ぎ、成氏より偏諱を受けて'''成朝'''<ref>偶然にも読みに変更はなし。</ref>と改名した。
 
[[享徳]]3年([[1454年]])には成氏の命を受けて[[関東管領]]・[[上杉憲忠]]殺害に加担、成朝の家臣である[[多賀谷氏家]]・[[多賀谷朝経|高経]]兄弟<ref>共に10代当主[[結城満広]]の孫にあたる。</ref>が憲忠を討ち取った([[分倍河原の戦い (室町時代)|分倍河原の戦い]])。これを契機に[[享徳の乱]]が始まり、成氏が幕府から追討を受けて鎌倉を追われた時、これを庇護している。{{要出典範囲|date=2019-1|なお、この時の戦功により高経は成朝の1字を与えられて「朝経」と改名している<!--<ref>[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tagaya_k.html 武家家伝_多賀谷氏]より。</ref>-->。}}
 
[[寛正]]元年([[1460年]])頃から次第に幕府と内通するようになると、これによって憲忠の仇討ちを願う[[上杉氏]]一族に引き渡される事を恐れた多賀谷朝経によって寛正3年([[1463年]])に暗殺された。享年24。