「アルゼンチン領南極」の版間の差分

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イギリスは[[1908年]]に南緯50度以南、西経20度から80度の南極半島を含む地域の領有を宣言しておりアルゼンチンの主張と衝突していた。さらに[[ノルウェー]]が[[1939年]][[1月14日]]に0度から西経20度までの地域([[ドローニング・モード・ランド]]の一部)の領有を宣言し、これに対し同地域の探検を盛んに行って領有を模索していた[[ナチス・ドイツ]]も[[1939年]][[1月19日]]に東経20度から西経10度を[[ノイシュヴァーベンラント]]({{lang-de|Neuschwabenland}}, {{lang-en|German New Swabia}}、ドイツ領ニュー・スウェイビア)と名付け領有を宣言した。このように南極の領有権を巡って20世紀前半には各国の主張が衝突した。チリ政府はドイツおよびノルウェー政府の宣言に刺激され、[[1940年]][[11月6日]]の布告1747号でチリ領南極の範囲を宣言した。これに対してアルゼンチンは[[1940年]][[11月12日]]のメモでチリ政府に対して公式に抗議し、チリ政府の南極領有布告の拒絶と、同じ範囲に対する領有権の主張の可能性を主張した<ref>The polar regions and the development of international law Volumen 3 de Cambridge studies in international and comparative law. pp. 58. Autor: Donald Rothwell. Editor: Cambridge University Press, 1996. ISBN 0-521-56182-5, 9780521561822</ref> 。
 
[[1942年]]1月にはアルゼンチンは西経25度から西経68度24分までの南極の領有権を主張し、[[1946年]][[9月2日]]には布告8944号でアルゼンチン領南極の範囲を西経25度から西経74度へ拡大した。さらに、[[1957年]][[2月28日]]の布告2129号で西経25度から74度、南緯60度以南の領有を確定した。これはチリ領南極の範囲と重なる結果になった。チリもこれに対し南極基地を置いて主権の根拠とすることを考え、[[1947年]]に[[グリーンウィ島]]に初の基地を開設し、翌[[1948年]]には南極半島のヘネラル・ベルナルド・オイギンス基地に[[ガブリエル・ゴンサレス・ビデラ]]大統領が訪問して、一国の元首として初めて南極の地を踏む実績を積んだ。
 
[[1948年]][[3月4日]]、対立していたチリとアルゼンチンは相互協定を結び、25度から90度の間にある互いの南極領土を法的に他国から守ることにした。[[1953年]]には[[国連]]で[[インド]]代表が南極の国際化を訴え、南極に領有権の歴史を持たない諸国が賛成を始めた。[[1955年]][[5月4日]]にはイギリス政府がアルゼンチンとチリに対して、国際法廷へ訴える前段階としてそれぞれの国の法廷で南極領有権主張の無効を訴えて裁判を起こしたが、両国で却下されている<ref>[http://www.icj-cij.org/docket/index.php?p1=3&p2=3&k=cc&case=26&code=uka&p3=0 Antarctica (United Kingdom v. Argentina)]</ref> 。