「マイケル・マン (映画監督)」の版間の差分

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==略歴==
1943年、イリノイ州シカゴの食料品店の2人兄弟の長男として生まれた。父は[[第二次世界大戦]]の影響でアメリカへ渡ってきた[[ウクライナ系]]の[[ユダヤ人]]([[東欧系ユダヤ人]])の血を引く<ref>{{cite news| url=http://film.guardian.co.uk/interview/interviewpages/0,,649435,00.html | work=The Guardian | location=London | title=Ali likes the film a lot. He's seen it six times | first=Xan | last=Brooks | date=2002-02-13 | accessdate=2010-05-12}}</ref>。[[ウィスコンシン大学]]で[[建築]]や[[哲学]]や学んでいたが、[[スタンリー・キューブリック]]の『[[博士の異常な愛情]]』を見て映画監督になることを決意。1960年代半ばに[[イギリス]]へ渡り、ロンドン・インターナショナル・フィルム・スクールへ7年間留学。[[リドリー・スコット]]、[[アラン・パーカー]]、[[エイドリアン・ライン]]らとテレビ局の[[ドキュメンタリー]]や[[コマーシャル]]を手がける。1971年、アメリカに帰国後、テレビドラマ『[[刑事スタスキー&ハッチ]]』『ポリス・ストーリー』などの脚本や監督を手がけ、1981年に映画監督としてデビューした。
 
1984年、TVシリーズ『[[特捜刑事マイアミヴァイス|マイアミ・バイス]]』を製作し成功を収める。映画監督としての一定の評価を受けるようになるのは、1992年の『[[ラスト・オブ・モヒカン]]』から。