「小川勝五郎」の版間の差分

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小川勝五郎本人はその後、東京で盛んに遊行に耽って財産を使い果たしたと伝えられている<ref name = "請負業史_92" />。そのため日本鉄道技術長の[[毛利重輔]]に運動して、[[常磐線]]の[[利根川橋梁 (常磐線)|利根川橋梁]]の工事に参入し、重太郎が現場で代理人として施工した。この際には、小川組は人夫の供給だけを命じられた。この時点で小川勝五郎は70歳近くであったと伝えられている<ref name = "請負業史_235" />。
 
その後の小川の動向はまったく不明であり、1917年(大正6年)に土木学会誌に「本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ」という記事が掲載された際に、「小川勝五郎(中略)既ニ人ニ属シ」とあるおとから、この時点で亡くなっていることがわかる程度である<ref name = "沿革_87" />。
 
== 脚注 ==