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ニコライ・シャシムリン[[技師]]の設計チームは、KV-1と[[T-34]]両方の後継を目指し失敗した[[プロトタイプ|試作]]戦車KV-13と、KVの軽量型である[[KV-1#バリエーション|KV-1S]]を発展させる形で、新型試作車オブイェークト233([[武装]]:76.2mm砲)と234(武装:122mm[[榴弾砲]])を作り上げた。機銃手兼[[無線]]手は廃止され、[[運転者|操縦手]]は車体前部中央に座る形となった([[機関銃|機銃]]は車体右前側に固定され、操縦手が発砲する)。直視型のバイザーブロックが付く前面[[装甲]]は、KV-13同様の大型[[鋳造]]部品となった。しかし、試験では操行装置や[[エンジン]]、また、転輪配置の間隔の問題で、特に軟弱な地面では激しい横揺れが発生し問題となった。転輪を片側6個に増やし改善した新型試作戦車オブイェークト237では[[砲塔]]が大型化され、[[52-K 85mm高射砲]]から発展した[[52-K 85mm高射砲#戦車砲|85mm戦車砲D-5T]]が搭載され、後のスターリン戦車の形状が完成した。また、[[トランスミッション]]は更に改良され、信頼性と量産性が向上した。しかし、'''IS-85'''として正式採用はされたものの量産開始に手間取ったため、繋ぎとしてこの戦車の砲塔をKV-1Sの改造型に搭載した[[KV-85]]が先行して量産された。
 
問題点を解決したIS-85改めIS-1は1943年10月から翌年1月にかけ107両が生産されたが、[[中戦車]]である[[T-34#1943年以降|T-34-85]]の量産開始と、85mm砲ではティーガーの[[8.8 cm FlaK 18/36/37#発展型|8.8cm砲]]の射程外からその装甲を撃ち抜くのは不可能であるという攻撃力不足が判明したことから、生産開始わずか15日で火力の更なる増強が決定された。対戦車用としてより強力な[[D-10 100mm戦車砲#D-10S|100mm戦車砲S-34]]を搭載する'''IS-100'''もテストされたが、全くの新型であり[[補給]]の問題から従来の[[野砲]]弾を流用できる[[A-19 122mmカノン砲|122mm砲A-19]]が採用され、これは量産型で戦車用に改良されたD-25Tとなった。これはIS-122、改め機密保持(名前から砲の[[口径]]がわかってしまう)のため[[IS-2]]として量産に入った(IS-2は122mm砲を搭載し、85mm砲搭載のIS-1より大幅に攻撃力を向上させたものの、車内は狭くなり居住性が悪化し、搭載できる[[弾薬]]が28発に激減したことは不評であったため、新型の85mm戦車砲ZiS-S-53に換装された試作車オブイェークト244も作られたが、採用はされなかった。)。
[[ドイツ人]]はJS(ヨットエス)-122と呼んでおり、ティーガー戦車のエースである[[オットー・カリウス]]が戦後のインタビューでこう呼んでいることから、戦中通しての呼び名ではないかと思われる。
IS-1はKV-85同様に親衛重戦車連隊に実戦配備された。この[[部隊]]では、乗員が戦車1両につき[[将校]]2名([[指揮官|戦車長]]と操縦手)、[[下士官]]2名(装填手と砲手)と[[階級]]が高かったが、多くは実戦部隊からではなく戦車学校から直接送りこまれてきた。そのためか、[[1944年]]2月、第13親衛戦車連隊のIS-1は[[ウクライナ]]のリスヤンカ村において味方部隊の攻撃支援中、[[V号戦車パンター]]および[[IV号戦車]]と[[突撃砲]]の待ち伏せを受け、距離600-700mからの集中砲火で壊滅した(にもかかわらず、翌日、村は[[赤軍]]により解放された)。また、翌月、同部隊のIS-1は至近距離から[[2.8cm sPzB41]]([[ゲルリッヒ砲]])に鋳造製の車体前方下部装甲を撃ち抜かれてしまった(後にこの部分には予備[[無限軌道|履帯]]が補助装甲として装備されるようになった)。そして、[[対戦車砲]]やティーガー戦車との戦闘で大きな損害を出し、代わりに[[IS-2]]が配備されていった。