「文禄・慶長の役」の版間の差分

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朝鮮にも火縄銃に似た火器があったが旧式のものであった。現代でいう「[[大砲]]」に分類されるものもあったが、銅製であり大きい割に威力が低く小型である日本の鉄製の大鉄砲なみの威力であった。[[宗義智]]が1589年に使節として朝鮮を訪れた際に進物として火縄銃を贈ったが、朝鮮国王はそれを軍器寺(武器製造官署)に下げ渡したのみで<ref>『懲毖録』[[柳成龍]]/平凡社・東洋文庫版14頁</ref>、李朝は開戦前にこの新兵器の潜在力を見抜くことができなかった。
 
朝鮮の歩兵は刀<ref>ルイス・フロイスによると、日本は「それ(=火砲・矢)以外の武器、特に刀剣は短く、大して役立たない」という事前情報を得ていた。『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第36章</ref>、槍、弓矢などの武器を装備していた。主力武器は弓であったが、当時の朝鮮の[[宰相]]である[[柳成龍]]が著述した懲毖録によれば、朝鮮の弓の最大射程は120メートル程度であり、日本の弓の140メートル余よりも短かった<ref group="注">ただし、朝鮮の「片箭(ピョンジョン)」という弓は遠距離用の短い矢を用いれば最大射程は450mに達するともいう。</ref>。

更に日本の火縄銃は朝鮮の弓より威力や命中率の点で数倍優れていた<ref>。懲毖録には「(火縄銃の)遠くまで発射する力と命中させる手際とは、弓矢に数倍する。(中略)弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、(中略)とても対抗できない」(東洋文庫版283頁)とある(当時の朝鮮の歩は約118cm) また同書に、尚州での両軍の戦闘においては朝鮮の弓は実射程が100mに満たず(「矢は数十歩で墜ちて」東洋文庫版60頁)日本軍に届かず、開平地の戦闘では火縄銃にアウトレンジされ一方的に損害を被ったことが記されている。</ref>、また弓を兵士が効果的に使いこなすためには、火縄銃よりも長く困難な訓練が必要であった。このほか、フロイス日本史には「火薬鍋(パネーラ・デ・ポールヴォラ、手榴弾のような兵器)」「鉄製の兜」「丈夫な皮製の防具」「銅製の小型砲」「矢をつめて発射する[[射石砲]](ボンバルダ)」などの記述が見える。朝鮮の騎兵は、対[[女真]]用に北方配備されており、乱戦用に[[殻竿]]と槍を装備して、遠距離戦用に弓矢を装備していた。朝鮮騎兵の戦闘としては、[[忠州の戦い]]・[[海汀倉の戦い]]があるが、いずれも日本軍が勝利している。
朝鮮軍の防具に関して柳成龍が著述した懲毖録に記録が残っている<ref>『懲毖録』[[柳成龍]]/平凡社・東洋文庫版290頁</ref>。それによれば、防衛に関する諸臣の一人が「賊(日本軍)は槍や刀を巧みに用いるが、我々朝鮮軍にはこれを防御することの出来る堅甲が無いために対抗できないでいるのです。」と発言したという。<ref>『懲毖録』[[柳成龍]]/平凡社・東洋文庫版290頁</ref>さらに、「全身を分厚い鉄で見えなくする鎧を作り、それをまとって敵と戦えば、敵は隙が無く刺すことができず、我々が勝てるでしょう。」と言ったという。これに多くの人々が賛同し、大勢の工匠を集め、昼夜をかけ鍛造したという。
しかし、数日して、重さに耐えきれず身動きも取りにくく使用が難しいことが分かり、計画は中止となったという。<ref>『懲毖録』[[柳成龍]]/平凡社・東洋文庫版290頁</ref>