「増田盛次」の版間の差分

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[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では父・長盛と共に西軍に付き[[大津城の戦い]]に参陣したという。戦後、増田家は[[改易]]され長盛は[[流罪]]に処されたが、盛次と庶兄・長勝夫婦は叔父・[[増田長俊]]の養子となり連座を免れ、盛次は徳川家康、次いでその子である[[尾張藩]]主・[[徳川義直]]に仕える。長盛の家督は末弟の新兵衛が相続した。
 
慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では徳川方として参戦し、戦功をあげた。しかし豊臣恩顧としての心情から城方が勝つと笑い、寄せ手が勝つと苦い顔をしていたという。このことが冬の陣後に家康の耳に達し「流石増田の子」と称賛される。その後、主君・義直の了解を得て尾張家を離れ、父・長盛とも相談の上で[[大坂城]]に入城する。家康は長盛の監視をゆるやかにするようにと言ったと伝わる<ref name="surugamiyage">『[[駿河土産]]』巻三</ref>。
 
慶長20年([[1615年]])5月6日、父・長盛が元服の烏帽子親を務めた[[長宗我部盛親]]隊に属し、八尾に進軍。徳川方の[[藤堂高虎]]隊と交戦する。当初は優勢であったが、その後形勢は徐々に逆転し、長宗我部隊は撤退を余儀なくされた。盛次が[[殿 (軍事用語)|殿軍]]を務めたが、藤堂隊の追撃は激しく、藤堂家臣の[[磯野行尚]]([[磯野員昌]]の孫)に討ち取られた。[[享年]]不詳。その討死は「はれなる」と称された<ref name="surugamiyage"/>。