「ヤン1世 (ポーランド王)」の版間の差分

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[[1496年]]、戦役のためにヤン1世は大きな代償を払いつつ[[ポーランド王国|ポーランド]]内から80000人の兵士をかき集めたが、軍事計画はシュテファン3世のモルダヴィア軍による[[ガリツィア]]への突然の侵攻によって瓦解した。モルダヴィアがポーランドと敵対した理由は、ヤン1世が末弟のジグムントにモルダヴィア公位を与える野心をかぎつけた為と言われる。敵対したモルダヴィアとポーランドは戦争に突入し、モルダヴィア領内に入ったポーランド軍は首都[[スチャヴァ]]の包囲に失敗した後、[[コズミン森の戦い]]で決定的な敗退を喫した。この敗戦の原因の1つは、従軍した[[シュラフタ]]達の不服従による指揮系統の乱れにあったとし、ポーランド帰国後にヤン1世は数百人のシュラフタの所領を没収している。ただし、国王は治世末期には人気を回復している。
 
[[ImageFile:Gradual of King John Albert.jpg|thumb|right|180px|ヤン1世の[[グラドゥアーレ]]]]
[[ドイツ騎士団]]の新総長となった[[フリードリヒ・フォン・ザクセン (1473-1510)|フリードリヒ・フォン・ザクセン]]{{enlink|Duke Frederick of Saxony|a=on}}がポーランド王への忠誠を拒むと、ヤン1世は彼に無理やり服従を強要した。騎士団に更なる迫害を加えようとしたヤン1世の決意は、1501年に自身が急死したことで挫折した。子供が無かったため、王位はアレクサンデルが継承、ポーランドとリトアニアは再び同君連合となった。
 
== 関連項目 ==
*[[ピョートルクフ法令]]
 
== 参考文献 ==
* V. Czerny. ''The Reigns of Jan Olbracht and Aleksander Jagiellon''. Kraków, 1882. {{pl icon}}
* {{1911|wstitle=John Albert|volume=15|page=458}}
{{1911}}
 
== 関連項目 ==
{{commons|John I Albert of Poland}}
* [[ピョートルクフ法令]]
 
{{先代次代|[[ポーランド国王|ポーランド王]]|1492年 - 1501年|[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]|[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]}}