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== 来歴・人物 ==
[[東京府]][[豊多摩郡]][[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]に生まれ、東京府[[東京市]][[渋谷区]]及び[[世田谷区]][[下北沢]]で育つ。[[仙台陸軍幼年学校]]、旧制[[東京都]]立第六中学校(現[[東京都立新宿高等学校]])4年修了を経て、[[1953年]](昭和28年)[[東京商科大学]](現[[一橋大学]])を卒業([[南博]]ゼミナール)。南は
[[辰濃和男]]とは大学の語学クラスの同級生
青蘭女子商業高等学校で教鞭(西洋史)をとった後、1953年(昭和28年)[[京都大学人文科学研究所]]助手採用試験を受験する。面接の結果は[[松尾尊兌]](後に京大教授)に次ぐ第2位で不合格のはずだったが、松尾の健康上の問題等から加藤も助手に採用される。
1954年(昭和29年)、[[ハーバード大学]]に留学する。[[ヘンリー・キッシンジャー]]、[[デイヴィッド・リースマン]]らに学ぶ。
1955年(昭和30年)、リースマンの転勤についていき[[シカゴ大学]]へ。1959年(昭和34年)には、[[スタンフォード大学]]コミュニケーション研究所研究員になり、[[ウィルバー・シュラム]]のもと「国際コミュニケーション」の研究を行った。同年帰国するが、4年後の1963年(昭和38年)から1年間、交換教授としてアイオワ州[[グリネル大学]]で教鞭をと
1967年(昭和42年)には
また「未来学研究会」の仲間と「万国博を考える会」も結成し、[[日本万国博覧会|大阪万博]]のテーマや理念を検討する。1968年(昭和43年)にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。小松、[[粟津潔]]、[[泉眞也]]らと
1969年(昭和44年)1月京都大教育学部助教授(比較教育学)に就任したが、翌1970年(昭和45年)[[大学紛争]]で京都大を辞職した。同年、[[ハワイ大学]]東西文化センターのコミュニケーション研究所創設に伴い同所長就任要請を受けるが断り、行政的義務や時間的拘束のない同研究所の高等研究員に就任する。
1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)にかけては[[今西錦司]]に誘われ、[[東レ]]がスポンサーの「環境問題研究会」に藤井隆<!-- タレントの藤井隆にリンクしてしまう。 -->、[[東畑精一]]、[[松本重治]]らと参加。研究成果は『人類とその環境』(講談社)にまとめられた。
その後は[[学習院大学]]教授、[[放送大学]]教授、[[中部大学]]教授・理事・学監・中部高等学術研究所所長・顧問、[[国際交流基金]][[日本語国際センター]]所長、日本育英会(現[[日本学生支援機構]])会長、[[日本ユネスコ国内委員会]]副委員長等を歴任した。
加藤は「音読みには漢字を、訓読みにはひらがなを使う」という原則のもと、漢字を多用しないため、文章にはひらがなが目だつ。その理由や表記の方針については、著書『自己表現』『なんのための日本語』(いずれも中公新書)。
長男に慶應義塾大学
== 職歴 ==
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