「マヌエル・デ・アリアガ」の版間の差分

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| 元首 =
| 出生日 = [[1840年]][[7月8日]]
| 生地 = {{PRT1830}} [[アゾレス諸島]][[{{仮リンク|オルタ]] (アゾレス諸島)|en|Horta, Azores|label=オルタ}}
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1840|7|8|1917|3|5}}
| 没地 = {{PRT}} [[リスボン]]
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'''マヌエル・デ・アリアガ'''({{lang-pt|Manuel José de Arriaga Brum da Silveira e Peyrelongue}}、 [[1840年]][[7月8日]] - [[1917年]][[3月5日]])は[[ポルトガル|ポルトガル共和国]]の初代[[ポルトガルの大統領|大統領]]。
 
アリアガは[[1840年]]に[[アゾレス諸島]]の[[{{仮リンク|オルタ]] (アゾレス諸島)|en|Horta, Azores|label=オルタ}}という街に生まれた。[[1860年]]から[[1865年]]まで[[コインブラ大学]]で学び、[[ポルトガル共和党]]に参加、[[1891年]]ごろ幹部となった。[[1881年]]には[[マデイラ諸島]]の共和党代議士に選出され、[[1892年]]まで務めた。アリアガには演説の才能があり、共和党の支持を広げるのには大いに貢献した。また他の[[共和主義者]]と違い、[[カトリック教会]]との関係には常に気を配っていた。
 
[[1910年10月5日革命]]によって王政が廃止され、[[1911年]]に大統領に選出されると、分裂していた共和主義の小政党を再び共和党のもとに統一しようとしたが、[[王党派]]の反乱などによって達成することはできなかった。[[1915年]]には[[テオフィロ・ブラガ]]に大統領職を譲り、[[1917年]]に[[リスボン]]で没した。