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'''ホレス・グリーリー・ヒャルマル・シャハト'''(Horace Greeley Hjalmar Schacht, [[1877年]][[1月22日]] - [[1970年]][[6月3日]])は、[[ドイツ]]の[[経済学者]]、[[政治家]]、[[銀行家]]。[[ドイツ帝国銀行|ライヒスバンク]]総裁(在任:[[1923年]] - [[1930年]]、[[1933年]] - [[1939年]])、[[ドイツ経済相]](在任:[[1934年]] - [[1937年]])。名前についてシャハトの後妻であるマンシにインタビューした[[川瀬泰史]]によれば、ヤルマールが正しいという{{sfn|川瀬泰史|2017|pp=3}}。
== 経歴 ==
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当時[[プロイセン王国]]の[[シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州]]([[:de:Provinz Schleswig-Holstein]])に属していた{{仮リンク|ティングレフ|da|Tinglev}}に生まれる(現在は[[デンマーク]]領)。父はヴィルヘルム・レオンハルト・ルートヴィヒ・マクシミリアン・シャハト(William Leonhard Ludwig Maximillian Schacht)。母はコンスタンツェ・ユスティーネ・ゾフィー・シャハト(Constanze Justine Sophie Schacht)(旧姓フォン・エッガース(von Eggers))。母は男爵令嬢だった{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=172}}。
両親
1895年から1899年にかけてドイツの[[キール (ドイツ)|キール]]や[[ベルリン]]、[[ミュンヘン]]などの大学で経済学を学んだ<ref name="ヴィストリヒ92"/><ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchachtHjalmar/index.html LeMO]</ref>。経済学に興味を抱いたきっかけは[[ミュンヘン大学]]で[[ルヨ・ブレンターノ]]の講義を受講したことだった{{sfn|川瀬泰史|2017|pp=9}}。{{仮リンク|ヴィルヘルム・ハスバッハ|de|Wilhelm Hasbach}}の指導下で博士論文(イギリス重商主義理論小史)を完成させ{{sfn|川瀬泰史|2017|pp=10}}、[[1899年]]に[[経済学]]の[[博士号]]を取得した。この論文はその後[[ベルリン大学]]で[[グスタフ・フォン・シュモラー]]のゼミに参加した際に、シュモラーから高く評価され、出版を勧められるほどで[[1900年]]に出版し、[[1963年]]には邦訳もされた{{sfn|川瀬泰史|2017|pp=11}}。
1903年に[[ドレスナー銀行]]に入社し、経済室長となった。同年にルイーゼ・ゾーアと結婚し、長女インゲが1910年には長男エンスが生まれる{{sfn|川瀬泰史|2017|pp=13}}。1908年には副頭取となった<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93">ヴィストリヒ、93頁</ref>。
1916年には私立銀行の「[[ドイツ国家銀行]]」([[:de:Nationalbank für Deutschland|de]])の頭取となる<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/>。[[第一次世界大戦]]中には通貨偽造スキャンダルに巻き込まれた<ref name="Hamilton331"/>。
第一次大戦後の[[1918年]]には[[ドイツ民主党]](DDP)の共同創設者となった<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/>。1922年にはドイツ国家銀行をダルムシュタット銀行と合併させて「[[ダルムシュタット及び国家銀行]]」([[:de:Darmstädter und Nationalbank|de]]、ダナート銀行)を設立させた<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/>。このダナート銀行は[[世界恐慌]]で倒れるまで、羊毛業[[:de:Norddeutsche Wollkämmerei & Kammgarnspinnerei|ノルトヴォレ]]の[[メインバンク]]であった。ノルトヴォレは1927年から資本金を倍増させるだけでなく、[[アムステルダム]]の子会社を通じて秘密裏に[[外資]]を調達した。原毛投機などに失敗して、1931年に破綻しダナート銀行を巻き込んだ。
合併前ダルムシュタット銀行は[[ロスチャイルド]]と共同してコンソーシアムをつくり、ドイツの政府債・自治体債を引き受けていた。このコンソーシアムは、[[オーストリア銀行|クレディト・アンシュタルト]]が参加するまで[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の起債を独占した<ref>Leopold Joseph, ''The Evolution of German Banking'', London, Charles & Edwin Layton, 1913, chapter 4.</ref>。
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====逮捕====
[[1944年]]7月20日に、[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐を中心にした[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂]]事件が発生。シャハトは事前にこの暗殺計画への参加を持ち掛けられてはいたが、「ヒトラー内閣に代わって樹立される新政府についてもう少し知る必要がある」と曖昧な返答して距離を保ち、計画には加わっていなかった。しかし事件後には連座していたとされて1944年7月29日に逮捕された<ref name="パーシコ下184">パーシコ、下巻184頁</ref>。このとき長女インゲの夫である{{仮リンク|ヒルガー・フォン・シェルペンベルク|de|Hilger van Scherpenberg}}も逮捕され、禁固2年の判決を受けた{{sfn|川瀬泰史|2017|pp=32}}。
その後は[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]、ついで[[フロッセンビュルク強制収容所]]に“特殊囚人”として収容されたが、1945年4月にドイツ国内に進軍してきた[[アメリカ軍]]によって解放された<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
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* {{Cite journal|和書|author=[[大島通義]]|title=第三帝国における軍事費の手形金融|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120005354257|format=PDF|journal=三田学会雑誌 |publisher=慶應義塾経済学会|issue=79(1)|naid=120005354257|date=1986|pages=58-90|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[大島通義]]|title=「危機」の年(1938年)の財政過程 : 国防軍財政を中心として|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120005350373|format=PDF|journal=三田学会雑誌 |publisher=慶應義塾経済学会|issue=80(6)|naid=120005350373|date=1988|pages=547(1)-577(31)|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=[[川瀬泰史]]|year=2017|title=シャハト ナチスドイツのテクノクラートの経済政策とその構想|publisher=[[三恵社]]|isbn=9784864876940|ref=harv}}
== 脚注 ==
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