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== 解説 ==
ポール・アンカは、1967年のフランス人歌手クロード・フランソワのシャンソン「Comme d'habitude」(コム・ダビチュード)を、南フランスで休暇中に聞いて、曲の権利を交渉するためにパリへ向かった<ref>http://music.guardian.co.uk/vinylword/story/0,,2129407,00.html How Sinatra did it My Way - via a French pop star and a Canadian lounge act</ref>。2007年のインタビューでは、「いまいちのレコードだと思ったけど、何かを感じた」と語っている<ref name="Telegraph">{{cite web |url=http://www.telegraph.co.uk/culture/music/rockandjazzmusic/3669097/Paul-Anka-One-song-the-Sex-Pistols-wont-be-singing.html |title=Paul Anka: One song the Sex Pistols won't be singing | work=The Daily Telegraph | location=London | first=Neil | last=McCormick | date=2007-11-08 | accessdate=2015-09-29}}</ref>。そして交渉後に無償で権利を得た<ref name="Paul Anka 2005">[http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=4793881 Paul Anka, "With Paul Anka, 'Rock Swings', Part Two"], interviewed on Fresh Air, WHYY, 10 August 2005</ref>。2年後に[[フロリダ州|フロリダ]]でフランク・シナトラと食事をした際、アンカによれば、当時シナトラは自分の嫌いなポップ・ソングを歌わざるを得ない状況にあり「こんな仕事は辞めてやるよ。もううんざりだ、とっとと辞めてやる」と語ったという<ref name="Telegraph"/>。
 
アンカは[[ニューヨーク]]へ戻ってから、元のフランス語の曲のメロディーを微妙に変更して、シナトラのために歌詞を書いた。<blockquote>「いつかの朝、IBM製の古い電動タイプライターの前に座ったときに『もしフランクにこの書いた詞を渡したら、彼は何て言うだろう?』と思いながら『今終わりが近い・・・』と始めた。雑誌をたくさん読んでいると、すべてが『俺のこれ (my this)』、『俺のあれ (my that)』であることに気づいた。僕らはフランクのことがまさに『俺の世代 (my generation)』だと思った。僕はいつもは使わない言葉だけど、彼が話した内容を『食いつくし、吐き出した』。僕は[[ラットパック]]の奴ら、自分の影に怯えているにもかかわらずマフィアのように話すのが好きな連中と蒸し風呂のまわりにいたものだった。」</blockquote>