「上田和明」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
33行目:
[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1984年のドラフト会議]]で明治大学[[広澤克実|広沢克己]]、[[竹田光訓]]と共に大学球界ビッグ3と呼ばれ、竹田のクジを外した[[読売ジャイアンツ]]に1位指名され翌[[1985年]]入団<ref>[https://archive.fo/20161211234703/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08november/KFullNormal20081117185.html 【11月19日】1984年(昭59) 竹田光訓は巨人?、広沢克己は西武?…希望通りにならなかった]</ref>。
1年目の[[1985年]]は、二軍でで51試合.288、3本の成績を残して打率14位、一軍出場も果たした。ところが、続く[[1986年]]は、二軍で65試合.155、3本と規定打席に到達しながら最下位であった。[[1987年]]は打率がやや盛り返し、二軍で49試合.253、0本で
結局、1989年はショートの川相昌弘が8月31日に投球を受けて骨折したため、上田がその代わりを務めたが、同年9月29日に、一塁ベースを踏んだ際に左足首を痛めて退場したため、二軍落ちして、10月のリーグ優勝時は勝呂がショートを守っていた。
|