「笹ヶ谷鉱山」の版間の差分

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明治期に入ると再び銅山として操業。砥石山頂上に[[煙突|大煙突]]が立ち山元に製錬所を設置するほどの規模であったが、第一次世界大戦終結により銅の価格が低迷。出水事故などにも見舞われ鉱山は経営不振に陥り、再建策として[[1921年]]より再び亜ヒ酸の製錬を開始する<ref>当時、アメリカでの綿花栽培や牧畜において、殺虫剤として亜ヒ酸の需要が高まっていた。また、亜ヒ酸を原料とする[[パリグリーン]]なども殺虫剤や農薬として盛んに使用されていた。</ref>。亜ヒ酸の製造は市況の変化に伴い小休止を繰り返しつつも、[[1949年]]に日本鉱業が撤退して閉山するまで、亜ヒ酸と銅のいずれか、もしくは両方を生産するという形の操業が定着した。
 
現在でも旧笹ヶ谷鉱山周辺の残土や旧[[坑道]]からの排水には砒素が含まれており、[[コンクリート]]製の堰堤が築かれるなど、大規模な鉱害防止対策が施されている。一部の坑口は津和野町によって管理されて保存されている(通常は立ち入り禁止)。また、鉱山の中心部から流れる笹ヶ谷川には昭和20年代に鉱害防止のために地元有志によって築かれた「笹ヶ谷ダム」([[ため池]]の一種)({{ウィキ座標度分秒|34|31|38.4|N|131|44|10.4|E|name=笹ヶ谷ダム}})が現存している
 
== 注釈 ==